2012年8月4日土曜日

「日本の原発、どこで間違えたのか」を読む:双葉町について

「日本の原発、どこで間違えたのか」 内橋克人著 朝日新聞出版(2011年4月)

この本は原発事故直後に出版されたが、実は「原発への警鐘」という1986年に出版された本の復刻本だ。

この本をよむと、1986年から数え25年近くも無視され続けて来た「警鐘」が、いかに正しかったか身に染みてわかる。そして、日本国の官僚と政治家、そして産業界がいかに国民を愚弄してきたかよくわかる。誰もが一度は目を通すべき本だろう。

まずは、最初の章に出て来た、双葉町のケースについてメモっておこう。第一章の最後の項に「反乱空しく」という個所がある。ここに興味深いことが書いてあった。それは、ヨウ素剤の備蓄に関しての報告だ。

双葉町には福島第一原発がある。その建設を誘致したのが、当時の町長だった田中清太郎氏。1963年から1985年までの20年以上に渡って双葉町の町長を勤めたが、その本業は土木建設業で、田中建設の創業者であり社長だった人物だ。
敗戦した日本人はよく頑張って働いたが、それは間違ったやり方でやってしまったと思う。自然という一番大事なものを壊すことで、手っ取り早く(焦ったやり方で)稼いだのが「列島改造」の中身だ。あたかも自分の内臓を売って、金儲けをしたようなものだ。心臓が一番高く売れただろうが、1億円の札束を握ってニヤつきながら息を引き取るなんて、馬鹿も甚だしい。1960年から加速した「列島改造」という馬鹿げた活動は、まさにこれに相当すると思う。

双葉町というのは、その土建業の代表みたいな人が町長を長く勤めていた町だったようだ。住民が選んだわけだから、福島の今の苦しみは、この町長のせいだけじゃないのも明らかだ。とはいえ、この町長こそが、原発を福島に持って来た張本人の一人だった。それは結局、目先の「一億円」に眩んで、自分の心臓を売り払ってしまったようなものだ。心臓を売ったわりには、意外に長生きで50年近くはもったけれど、今から考えれば「一億円」なんて自分の心臓の価値に比べたら端金だし、50年なんて蜻蛉の一生みたいなものに思える。福島の美しい自然はこの先数百年、下手すると数万年の単位で壊されてしまった。たかが、50年の「繁栄」のために。

さて、この土建業が本職の町長は、全国原子力所在地市町村協議会の理事だったり、福島県原子力発電所在地町協議会の会長だったりもして、全国を歩いては原発の素晴らしさを宣伝して回ったようだ。この姿、今の大飯町や御前崎市の政治家や役人たちと似てるような気がする。原発が爆発して深く後悔した福島の人々のように、このまま原発が動かされ続けるならば、福井や静岡の人たちが同じように後悔する日がくるのは確実だろう。なんといっても、静岡には東海地震がいずれはやってくるし、福井の地下には活断層がたくさん走っているわけだから。

さて、昭和57年12月の昔、双葉町の町議会で「ヨウ素剤の備蓄」を巡って議論があった。ヨウ素剤というのは、今回の事故でも取り上げられたが、強い放射能をもつヨウ素131による内部被曝から甲状腺を保護するために内服する。ヨウ素131の半減期は8日だから、事故直後に急いで服用する必要がある。

ここで誤解しがちな点をひとつ指摘しておこう。半減期が8日と短いヨウ素131は放射能が高いのか、それとも低いのか?答えは「高い」だ。放射能というのは放射線を出す能力のことだから、半減期が短い程、短期間にたくさんの放射線を放出する。大雑把にいって、半減期というのは、フレッシュな作り立ての原子核があったとして、それが放射線を出すまでの時間だと考えることができる。半減期が1秒のものより、半減期が1年の放射能物質のほうが「安全」なのは直感的にも理解しやすいだろう。そういう観点からすると、何億年という半減期を持つウランの未使用核燃料よりも、セシウム137やヨウ素131といった死の灰にまみれた「使用済み燃料」の方がはるかに放射能が高く、恐ろしいのだ!原子力発電というのは、電気エネルギーを生成する代償として、核燃料の放射能を高めてしまう処理に他ならない。

ヨウ素剤の話に戻ろう。市民、町民を守るためには、常日頃からヨウ素剤を身の回りに置いておかねば役にたたない。実際、今回の事故ではまったく役に立たなかった。病院の倉庫にしまい込まれていたからだ。しかも、身の回りに置いてなかっただけでなく、服用すべきかどうか決断に迷っているうちに時間切れになってしまった。とてつもなく大勢の人が、ヨウ素131を吸い込み被曝してしまった。そして、その放射能物質はすでに全ての放射線を出し尽くして、別の物質へと変わり果てた。もう手遅れなのだ。

昭和57年の双葉町で問題となったのは、「なぜヨウ素剤をこっそりと27万錠も購入し、隠すようにして県立大野病院に保管していたか」だった。いまから考えると笑ってしまうよなレベルの低い話だが、このときの争点は「絶対安全な原発ならヨウ素剤の備蓄は不要ではないか?」というものだった。

この時の町長の返答は「存じ上げておりませんでした。今後はこういうことがないように検討させる」だった。この日本語には注意が必要だろう。まず、この答弁ではあくまで「検討する」といっているだけで、これからどうするか町長の決意についてはまったく述べていない。つまり、回答拒否だということだ。よくあるケースは、こう言っておいて、結局は町長のやりたいようにやるケースだ。答えは最初からきまっていて、形だけ「検討会」を数時間開催するだけというものだ。これは民主主義の正反対、つまり専政、独裁という。封建時代に採用されていた低レベルな行政の運営形態だ。次に、「検討させる」といっているから、町長自身はこの問題については頭も体も動かさないということを明言している。誰か(結局は役人)にやらせるわけで、責任放棄している。「わたしは土木会社の社長なんだから、本当の政治には興味ありませんよ」と自白しているような回答だ。そして最後に「存じ上げてない」という言葉。これは「私のせいじゃない」と行っている訳で、その地区の行政の最高責任者とは思えない発言だ。しかし、これは日本の政治の構造の本質をついている。つまり、行政(国や市町村)を支配しているのは、政治家ではなく、役人や官僚だということだ。双葉町の行政方針も、事務レベルでは役人が勝手に決定していたのだろう。行政の方針は、町民の意見を幅広くとりいれつつも、最後は町長の責任で行うべきだ。

実は、この話にはオチがあって、実際このヨウ素剤の購入をおこなった役人は、「昭和56年に県が購入し、そのまま管理しているだけ」と答えた。この文章には主語がない。もちろん、県という主語があるわけだが、県の誰だったのか明らかにしない。役人というのはナウシカで登場する「虫達」のように、集合体として振る舞うようだ。「個人」というものが無いらしい。そして互いにテレパシーかなにかで意思伝達を行っている(触角でもふるわせているんだろうか?)。

結局、ヨウ素剤をどういう風に活用するのか?原発は爆発する可能性があると認めているからヨウ素剤を買ったのか?そういう、質問には答えていない。国語の試験を受けさせたら、間違いなく0点だが、公務員試験の採点法は普通の採点基準を使っていないのかもしれない。「質問に答えたのに、どうして採用試験に落ちたのだろう」と不思議に思っている受験者がいるとしたら、彼らはきっと答案に質問の答えを書いてしまったんだろう。例えばこんな感じか?

[問一] 福島県は昭和57年にヨウ素剤を27万錠購入したが、それはどうしてか?簡潔に述べよ。(20点)

解答: 昭和56年に県が購入し、それ以後管理している。(採用試験に受かりたいなら、このように書くのだろうか。もちろん、通常の試験では0点。)

解答2:原発で放射能漏れ事故が起きた時、原発から放出され、高い放射能をもつヨウ素131から身を守るために服用するのがヨウ素剤である。つまり、福島県は原発は絶対安全と口では言いながらも、内心では放射能漏れのような大事故が近いうちに起き、27万人程度の人々が被曝するだろうと思っているから購入した。(普通はこういう書き方で満点となるだろう。でも、採用試験では0点?)

ちなみに、福島市の人口が約28万人だから、福島県は県民全員の健康を救う意思はなかったらしい。


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