先週、NHK教育で放映された番組
「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸(しゅんこつまる)~」を観た。
太平洋戦争が終わった後、アメリカとソ連(現在のロシア)は核兵器の開発競争を繰り広げた。如何に威力のある核兵器をもっているかを見せしめることで、相手を威嚇しコントロールするためだ。
アメリカはニューメキシコの砂漠で最初の核爆弾の爆発実験を行い、その後はネバダ州などの砂漠地帯で実験を繰り返していたが、アメリカ本土の放射能汚染を恐れ、日本との戦争で手に入れた実質上の植民地、太平洋の島々に核実験の場所を移した。ビキニ環礁と呼ばれる珊瑚礁では水爆実験を23回繰り返した。
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NHKのETV特集より。 |
南太平洋のこの海域とその周辺は日本のマグロ漁場となっていて、多くの日本の漁船が実験中にビキニ環礁の海域にいた。アメリカ軍は爆弾の威力を低く見積もり過ぎていたため、この海域を立ち入り禁止にしていなかった。
米軍の開発した水爆は原子爆弾を起爆装置として利用する「汚い水爆」であり、爆発と共に飛び散る「死の灰」は致死量を遥かに上回る放射能を帯びていた。死の灰を浴びた第五福竜丸の船員たちは急性の放射性障害にかかってバタバタと死んでいった。また、日本に水揚げされるマグロの放射能汚染は想像を絶するひどさであることが判明した。魚を主たる食料とする日本人にとって、太平洋の放射能汚染は死活問題だった。
アメリカ政府は「放射能は怖くない。薄まるので問題はない」と(どこかの電力会社と同じ様に)日本人に説明した。にも関わらず、日本から輸入するマグロの缶詰には厳しい汚染検査を要求し、放射能が検出されないマグロだけを特別に選ばせ、それを米国向け缶詰用とさせた。日本政府は言われるがままであった。そして、(米国の基準では汚染された)残りのマグロを日本人に消費させた。「許容範囲以下であるから安心」と説明したが、日本人だけに適用された「安全な」許容範囲であった。
日本政府内でも意見の対立はあったようで、このような米国の圧力に対抗しようとした部署もあった。水産庁が南太平洋海域の放射能汚染調査を実施することを決定したのである。案の定、諸々の圧力がかかり、調査のための予算は削りに削りとられた。その結果、ボロボロの練習船を改造した「俊鶻丸」が調査船に選ばれることとなった。
ビキニ環礁にたどり着くまでに、米軍の潜水艦に沈められる恐れがあった。いわゆる
「どさくさ攻撃」による証拠隠滅だ。俊鶻丸の使命は、米軍の攻撃を避けてビキニ環礁まで到達し、その海域を含む周辺の海の放射能汚染データを持ち帰ることであった。
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日本の命運を懸け、東京から4600キロ彼方のビキニ環礁目指して、
たった一隻で太平洋を進む俊鶻丸。NHKのETV特集より。 |
乗組員に選ばれたのは、30から40代の若い科学者だった。幅広い分野から選考され、生物班、気象班、
海水大気班、海洋班、環境班、食料衛生班といったグループが組織された。また、物理から放射能測定の専門家、岡野真治博士が選ばれた。
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俊鶻丸に乗り組んだ科学者たち
(NHKのETV特集より) |
日本人の健康、そして日本の国の尊厳とその未来を懸けて、科学調査船「俊鶻丸」は東京港を出航した。米軍の攻撃や強い放射能被曝など、数多の困難が待ち受ける命懸けの航海であった。
「必ずここへ帰ってくると、手を振る人に笑顔で応え...」
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出航する俊鶻丸(NHKのETV特集より) |
まさか本当にそういう事が日本の歴史で起こっていたとは知らず、驚くばかりだ。