「自分の買ったマンションが実は昔の水田の上に立っていた!」とかいうことが起きないように、昔の様子を調べておくのは無駄ではないはず。
ちなみに、駒場周辺の地図を見てみたら次のようになった。
上が現在の詳細な地形図、下が明治中期のころの土地利用図。 赤い×や青色の印が付いている場所は、以前土壌サンプルを採取して放射能汚染を調べた地点。 |
現在の駒場キャンパスの中心部分がある高台の部分は、この地図が作成されたころは牧草地となっていて、その周辺には広大な農場(畑)が広がっていた。現在の銀杏並木のある真っすぐな道は、この農場を貫く直線路で、それは駒場公園にある旧前田公爵邸まで伸びていた。
現在は野球グランドやテニスコートがある、駒場キャンパスの西端の部分はなぜか一段低くなっていて、在学中にはちょっと不思議に思っていたのだが、それは、ここが明治の頃までは、小川の流れるちょっとした谷間だったからであることが古地図から判った(!)。現在の15号館と16号館の建物の接合部などに大きな亀裂が縦に入っているのは、この場所が谷を埋めた「盛り土」になっているからに違いあるまい。また、テニスコートの先の「坂下門」の横には小学校があって、その脇には今でも湧水があり、そこより流れ出る水は、かつての小川の名残りなのかもしれない。銀杏並木から前田邸に続く道は、この谷を横切って続いていた。現在は「西門」のところでちょっと折れ曲がりつつも、以前の直線道の名残りが確認できる(公園に抜ける道がある)。
この谷の出口となっている場所には井の頭線の踏切があって、その下には現在も水田がある(!)。これは駒場農学校の実験水田の名残りらしい。この水田は現在は近場の学校に通う学生やら、皇室の行事やらで使われていると、たしか駒場野公園入り口の看板に書いてあったのを昔読んだ記憶がある。
目をキャンパスの北側に向けると、山手通りに相当する場所には大きな道は明治期にはなく、「けものみち」か農家の使う小径のような小さな道しかない。そのさらに北側には、東京でも有数の高級住宅地の松濤が現在はあるが、そこは明治の頃はなんと茶畑であった!鍋島公園を囲むこの台地は、江戸時代には徳川家の屋敷があったが、そこを鍋島氏なる九州の士族が明治になって商売を企んで買い上げて茶畑とした、と渋谷区のホームページに説明があった。その茶の商品名が「松濤」だったということ(!)は、今回初めて知った(Chez Matsuoのある場所も茶畑だったのだ、きっと)。茶のよく育つような高台にあるのだから、松濤はきっと地震に強い、地盤のよい場所ではないだろうか?
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