しかし、現代の日本において(とりわけ福島を中心とする)、この反省は虚しい「建前」にすぎないと心の底より感じた。つまり、今、「戦争をやろう」という話しになれば、ほとんどの日本人は大正や昭和初期の日本人同様に、戦争を止める事はできないだろうということだ。こんな風に感じたのは、東京新聞の記事「こちら特報部(東日本大震災4年特集)」を読んだからだ。
3月11日の記事に、「放射線の影響話しづらい」という見出しの記事があった。一部抜粋してみよう。
「友だち同士でご飯を食べに行っても、放射線のことなんか話題にできない。『これの産地はどこ?』と聞いただけで白い目で見られてしまう」...途中略
「『放射線が心配』という話題を出すと、避難がどうのという話になる。自主的に避難した人は裕福で、かつ故郷を見捨てたと見られがち。ねたみや疎外感を感じる中で、放射線を話題にするのはつらい」
息子が通う保育園では除染していない道路を散歩したり、福島県産の米を給食に使っている。ただ、いじめを懸念して声を上げられずにいる。「弁当を持たせたりすると、自分の息子だけが浮く。何をどこまで訴えたらいいのか...」放射線の影響を怖がる人は、自分の意見や主張を貫けず、全体に迎合してしまう。また反対に、放射線の影響を気にしない人は、意見の違いを尊重できず、「仲間はずれ」を徹底的に叩く。これは、かつて「非国民」というキーワードによって、日本国民を全体主義に引きずり込んだ、先の戦争時の状況と瓜二つではないか?
欧米で成熟している「市民」とか「民主主義」という概念が日本人の心のなかにはまだまだ染み渡っていない。江戸時代かそこらの古い封建主義、全体主義や連帯責任なんていう、徳川が編出した古臭いが極めて効果的な支配法にいまだに洗脳されている感じがする。
一方で、ヨウ素131による甲状腺癌の問題に関しても、事実を隠蔽、矮小化しようとするやり方が目立ってきている。戦時中、米軍にこっぴどくやられた日本軍の惨敗ニュースを隠すため、都合のよい新しい言葉を生み出しては(例えば「敗北、退却」を「転進」と言い換えたように)国民の目を欺いた。東京新聞によれば、30万人が癌の検査を行い、109人が癌あるいはその疑いが強いと診断された。子供の甲状腺癌の発症率は2011年以前には「100万人に数人」と言われていたが、2011-2014年の福島県の検査データをまとめれば、「100万人中363人」という結果となった。これは通説の40倍近くの発症率ということになる。通常の科学者ならば、これは「有意な値で、放射線の影響を福島の子供たちは確実に被っている」と結論しなくてはならない。ところが、検査を実施した福島県立医科大学は、いまだに「原発事故とは無関係」と言い切っている。
たしかに、チェルノブイリの原発事故では、甲状腺癌が激増したのは事故から5年後だった。しかし、それは網羅的に検査した結果ではなく、5年目くらいから「あれ、なんかおかしい」と気付き始めた患者が増え始めたということだ。精密検査でみつかる癌は、自覚症状がない場合が多いだろうから、もし福島と同じように早期から精密検査を行っていれば、チェルノブイリのケースだって5年よりも前に子供たちの甲状腺の異常が見つかっていた可能性は高い。
事故から4年が過ぎたが、甲状腺癌との闘いに関してはこれからが本番だ。しかし、関係者の中には、逆に、もう闘いは終わりつつあるかのような態度で事態に対処している人もいるらしい。なんでも、この大事な時期に、検査の対象地域や年齢層を減らそうとすらしているそうだ。「あんまり一生懸命調べたら、たくさん癌患者が見つかってしまって困る」と言っているように聞こえる。
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