この間の論文の続編がほぼ完成した。
前の論文が発表されてから、よくよく調べてみたら前回の結果は一般化できることが分かったのだ。今回の論文では、数学の基礎理論を多用している。数学の基礎というのは本当に大事だと痛感した。それから、難しい教科書の細部という奴も、後で凄く大事になる。つっかかってしまって先に行けないのはよくないが、後で思い出して戻れる程度には理解しておくべきだった。そして必要なときに、必要なだけ深く理解できるような柔軟さも訓練して身につけておく必要があろう。人間というのは動機が必要なのかもしれない。せっかくの才能も、動機がないと発動させられない。
そういえば、小学校の頃、桜の散る時分になると必ず外国人の宣教師が校門脇に現れた。この宣教師、桜の木の下で自転車の荷台に紙芝居の道具を載せて、聖書の話を紙芝居にして子供達に説教した。私はクリスチャンではないが、彼らの影響を受けて、知らないうちに聖書風の考え方を身につけてしまったような気がする。
彼らの見せた絵の中に、天国への門の絵があった。開け放たれた大きな門は、門というよりは広い敷居に過ぎなかった。誰だってそこを跨いで簡単に天国に向かう事ができるように見える。しかし、宣教師は、「天国への門は誰にでも開かれているのだが、それを見る事をできるのは限られた人だけ」と言った。この広くて開け放たれた門を、多くの人々は見逃してしまうのです、と付け加えた。確かに絵をみると、門の目の前で横を向いたり、下を見たりと、まさに近視眼的な振る舞いをしている人々が描かれていた。天国の門の存在は、見える人には自明だが、そうでない人には永久に見えないのだという。子供の頃に「洗脳」されてしまった私にとって、この喩話は、今、至極納得がいく。
1 件のコメント:
michikoさん、
コメントありがとうございます。
必要無いと決めつけ、境界を引いてしまうと、脳みその活動が止まってしまうことに気付いた、といってもいいと思います。
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