2012年4月11日水曜日

死んだ信頼:The Economist誌の記事より

英国旅行の際にスーパー(Waitrose)で買ったThe Economistという雑誌で、原発特集をやっていた。そのタイトルは"The dream that failed"。英国の経済誌は、はっきりと「原発は終わった」と考えているようだ。

特集記事の前に、導入記事があった。そのタイトルはThe death of trust、つまり「死んだ信頼」。これは原発事故によって日本がどう動いたかを的確にまとめた記事だ。まずは冒頭の部分だけ見てみよう。


浪江町の請戸地区に住んでいた横山若菜(13歳)さんは、大震災から一年たった3月11日に開かれる村の祭りで、村に伝わる田植えの舞を踊ることになっている。横山さんがこのお祭りを心待ちにしているその理由は、避難のために村を離れ、散り散りになってしまった友達たちと久しぶりに再会できるからだ。しかし、それは悲しい現実と向き合うことでもある。「村人」はいても、彼らの「村」はもうないのだ。 
寒く冷えきった一年前のあの日、大津波は請戸地区を直撃した。1800人の人口の内、180人が津波に流されて死んだ。そこには横山さんの家族も2人含まれている。当初は、津波には飲まれたものの、救助隊に助け出され、一命を取り留めた人たちがいた。しかし、村の向こうにある福島第一原発で最初の水素爆発が起きたとき、政府の優先事項は 津波を免れた人々の避難へと変更された。つまり、津波にさらわれた人たちの救助はあきらめたのだ。横山さんとその家族、そして何千人という村人たちは、原発から離れた場所にある避難所へ車で逃げるように命令された。しかし、その避難所が、原発から放出された放射能プルームの通り道にあったことを村人たちは知らなかった。(つまり、政府は何度も何度も致命的な間違いを犯し、やることなすことすべてを失敗したということだ。) 
村を離れた横山さんは現在郡山に住んでいる。原発より西に60キロほど離れた街だ。新しい小学校には、以前のクラスメートは誰もいない。しかも、この地においてすら、放射能汚染のため一日に3時間しか屋外で遊ぶことができない。時間が流れるにつれ、太平洋の潮の匂いを共に嗅いだ、同じ村の仲間達たちとの絆はどんどん薄れていく。しかし、何百年も続く田植えの舞のことになると、横山さんは生き生きと話だす。よく考えるとこれは不思議なことだ。彼女がもう二度と住むことのない村、そこに伝わる伝統の踊りを継承しなくてはならないと、こんな小さな子供が責任を感じている。(よく考えれば、横山さんが負わされた悲劇や苦しみ、そして伝統を守るという責任は全て、横山さんを置いて先に死に行く大人たちのせいで作られたものだ。自分たちだけ楽しんだ「ずるい」大人達がつくったその重い十字架を、どうしてこんな小さな子供たちが、これから死ぬまで背負わなければならないのだろう?)
ちなみに、括弧の中は「訳者注」に相当する付け足し。

訳してしまうとクオリティが落ちてしまうのだが、実によく書けている文章だと思う。海外の人たちが関心を持ったのは、どうやら、東北の人たちの個人個人の志の高さに引き換え、日本政府の能力が信じられないほど低レベルという「対比」あるいは「対照」にあるようだ。つまり、地方に住み、ちょっと古い時代の習慣にしたがって生きる人々の精神性の高さに驚くと同時に、「新しい」考えを持ち、受験競争などを勝ち抜いて首都東京にへばりつくエリート(であるはずの人)たちが、国を転覆させてしまうような致命的な間違いを何度も繰り返すという、その「劣化」した能力に驚いている。

この文章に続く記事でも、この点が何度も突かれる。原発事故の記事というより、だめな日本という国家、という感じである。文章の題名がThe death of trustというのは、原発に対する信頼がなくなった、という意味だけでなく、日本政府や官僚達はもう国民から信頼されていない、という意味にも使っている。この手法、いわゆる和歌の掛詞と似たやり方だ。

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