2015年9月22日火曜日

お土産は日本兵の頭蓋骨

アメリカでは、有名な写真だというのだが、私は初めて見た。太平洋戦争で撃ち殺した、日本兵の頭蓋骨を綺麗に磨いて、アメリカ本国にいる彼女に「お土産」として送ったのだという。この当時、アメリカ兵の多くが、日本人のことを「人間」とは思っていなかったのは明らかだ。マシンガンや火炎放射器で簡単に狩れる「動物(猿?)」くらいのつもりだったのであろう。「彼女」が書いているのは、「すてきなお土産ありがとう」という内容の手紙だそうだ。
Original source: Time.com
戦争は忌み嫌うものであることは確かだし、負けたらとにとにかく悲惨であるのは間違いない。だが、政府や軍に騙されて、実際に戦って殺され、ウジ虫扱いされた日本の若者たちは本当に惨めだ。最近出版された"Severed"という本には、火炎放射器で焼かれ、剥製のようになった日本兵の死体を、玩具のように戦車に吊るしてある写真とか、いろいろな写真が載っている。(翻訳されたものを、最近神保町で見かけた。)

Original source: time.com

日本軍の最大の特徴は、命令する指揮官のほとんどが、戦場の前線には行かないことだ。ナウシカに出てくるクシャナの兄たちがまさにそれを彷彿とさせる。

惨めな死に方をし、死んだ後も惨めな扱いを受け、竹槍で特攻したりジャングルで毛虫を食べたりして必死に戦う姿を、圧倒的に優勢な敵軍に嘲笑され、馬鹿扱いされ、蔑まれて、切り刻まれるのが、伝統的な日本の兵隊の真実なのだ。

そして、これとまったく同じ事を、中国やその他のアジアの人々に行ったのも日本の兵隊だ。まさに身の毛もよだつ。しかし、それが戦争の実態だ。

2015年9月19日土曜日

言論の自由は言論にて勝ち取る、民主主義への挑戦は民主主義で対抗する

かつて小出裕章先生が国会で証言したとき、ガンジーの言葉を引いた。その言葉の中に、現在の日本の政治家たちのほとんどが入ってしまう。

昨年のノーベル平和賞を受賞したマララは教育が大切だという。彼女は頭に銃弾を打ち込まれながら、「言葉」で闘っている。そして「教育」が最強の武器だと主張している。これから日本を担うの次の世代の人々が、憲法とはなにか、民主主義とはなにかについて、水や空気のように馴染んで行くには、正しい教えが不可欠だ。

現在日本を担っている世代は、まともな議論もせず、議論をすれば論理破綻し、ただただ多数決にすがる人が多いようで、広渡先生のいうように「反知性」な感じが非常に残念だ。

東京新聞の記事で、内橋克人氏は「阿部政権の目指すのは軍産複合体」だと主張している。また、テレビ朝日の解説では「外務省が常任理事入りを目指す過程で、武力行使できる国家の建設を目指している」という。これが本当だとすると、「国民主権」を理解していない人間が、自分勝手に(強行採決や嘘の演説)、隠れてこそくな手段(秘密保護法など)で、ごく少数の特権階級に属すると思っている彼らの、自分たちの利益だけを目指す過程で、日本人を「金儲けの道具」として使い捨てようとしていることになる。これは、昭和の初めに日本軍が採用した「金儲け」のやり方とまったく同じだ。

三菱や三井や住友といった財閥の利益のためだけに、飛行機や船に乗って体当たりさせたり、竹槍担いでマシンガンに撃ち殺されてこいと命令して、日本人の命を祖末に使い捨てた、日本軍の戦争のやり方とまったく同じだ。

使い捨ての感覚は、沖縄の人や福島の人が味わってきたし、今も味わっている。そしてなにより、全国の日本人がその感覚をよく知っているはずなのに、多くの人が「カネ」の味に味を占めて忘れてしまった。でも、「自由」の味を知ったもう半分の日本人がいることも確かだ。「教育」によって、後者の数を増やし、民主主義の力に依って、自由で平和な社会を国民自身の手で作り上げ、今行われている政治的愚行とその結果を、形も色も残らないように徹底的に「染み抜き」することは、かならず必ずできる!

2015年9月17日木曜日

量子力学における「変換」の定義

量子力学は、線形代数によって定式化された物理理論と見なせる。特に対角化による基底変換が重要となる。「よい基底」を見つける事ができると、物理が簡単になるからだ。

量子力学の演算子の変換の定義で、いつも迷うのが逆行列か、エルミート共役か、である。つまり、変換Tによって、演算子AがBに変換されるとき、
と書くべきか、それとも
と書くべきか?という迷いだ。

普通はどちらで書いても問題ない。というのは、量子力学で使う変換というのは大抵の場合ユニタリー変換だから、
が成り立つため、どっちの変換定義を選んでも同じことになるからだ。

しかし、そもそもどちらから話しが始まったか、最近どうしても気になってしまい、Dirac, Messiah, Sakuraiで読み直してみる事にした。

Sakuraiでは、逆変換はまったく出て来ない。スカラー積が保存されるべし、というのが基本原理になっていて、最初からユニタリー変換を基軸にして理論を構築していく。アメリカ人(ほんとは日本人だけど)らしい、実際主義な書き方だと思う。

一方、Dirac, Messiahは逆変換から理論を始めている。

MessiahはDiracの教科書を踏襲しているらしく、話しの内容はほとんど同じ。Messiahの教科書は、結局、Diracが「自明」として書かなかった部分を付け足したりや、現代的な用語を使ってないところを現代的に書き直したり、そんな感じの「修正」に過ぎない(と思う)。

Diracは「量子力学の祖」ということでノーベル賞をもらっている訳だから、Diracの教科書が「正統」だろう。これに異を唱えることは、量子力学に挑戦することを意味する(それをやってはいけない、という意味ではない)。少なくとも、私は挑戦しない...それにしても、Diracの書き方は昔風で、用語も現代の観点からすると馴染みのないものが多いので、読み難い。とはいえ、理論自体は明快で、いったん現代の用語との対応がわかれば、「目から鱗」状態になるのは周知の通り。

さて、逆行列からスタートするというのは、探しているカノニカル変換(固有値問題の行列を対角化するような基底への変換と考えていい)が、固有値方程式(特にエルミート演算子の)の固有値を不変に保つ変換であるべしという要請を課しているいるからだ。それがユニタリー変換に制限される理由は、(変換前の)エルミート演算子を(変換後にも)エルミート演算子に変換するという要請である。Diracを読んでいてこのことに気付いたのは、今回が始めて。もちろん、昔読んだ訳だが、先を急いで読んでいたので、こういう細かいところは忘れてしまっていた。

ということで、演算子の変換は逆行列で定義され、それを量子力学の要請によって、ユニタリー変換に制限する、というのが正しい論理のようだ。