量子力学は、線形代数によって定式化された物理理論と見なせる。特に対角化による基底変換が重要となる。「よい基底」を見つける事ができると、物理が簡単になるからだ。
量子力学の演算子の変換の定義で、いつも迷うのが逆行列か、エルミート共役か、である。つまり、変換Tによって、演算子AがBに変換されるとき、
と書くべきか、それとも
と書くべきか?という迷いだ。
普通はどちらで書いても問題ない。というのは、量子力学で使う変換というのは大抵の場合ユニタリー変換だから、
が成り立つため、どっちの変換定義を選んでも同じことになるからだ。
しかし、そもそもどちらから話しが始まったか、最近どうしても気になってしまい、Dirac, Messiah, Sakuraiで読み直してみる事にした。
Sakuraiでは、逆変換はまったく出て来ない。スカラー積が保存されるべし、というのが基本原理になっていて、最初からユニタリー変換を基軸にして理論を構築していく。アメリカ人(ほんとは日本人だけど)らしい、実際主義な書き方だと思う。
一方、Dirac, Messiahは逆変換から理論を始めている。
MessiahはDiracの教科書を踏襲しているらしく、話しの内容はほとんど同じ。Messiahの教科書は、結局、Diracが「自明」として書かなかった部分を付け足したりや、現代的な用語を使ってないところを現代的に書き直したり、そんな感じの「修正」に過ぎない(と思う)。
Diracは「量子力学の祖」ということでノーベル賞をもらっている訳だから、Diracの教科書が「正統」だろう。これに異を唱えることは、量子力学に挑戦することを意味する(それをやってはいけない、という意味ではない)。少なくとも、私は挑戦しない...それにしても、Diracの書き方は昔風で、用語も現代の観点からすると馴染みのないものが多いので、読み難い。とはいえ、理論自体は明快で、いったん現代の用語との対応がわかれば、「目から鱗」状態になるのは周知の通り。
さて、逆行列からスタートするというのは、探しているカノニカル変換(固有値問題の行列を対角化するような基底への変換と考えていい)が、固有値方程式(特にエルミート演算子の)の固有値を不変に保つ変換であるべしという要請を課しているいるからだ。それがユニタリー変換に制限される理由は、(変換前の)エルミート演算子を(変換後にも)エルミート演算子に変換するという要請である。Diracを読んでいてこのことに気付いたのは、今回が始めて。もちろん、昔読んだ訳だが、先を急いで読んでいたので、こういう細かいところは忘れてしまっていた。
ということで、演算子の変換は逆行列で定義され、それを量子力学の要請によって、ユニタリー変換に制限する、というのが正しい論理のようだ。