ラベル 旅行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 旅行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年11月8日日曜日

東欧の線量計

東欧の街に仕事でいった。研究所の前の建物に線量計がついていた。
結構高い値で驚いた。ヨーロッパ人は「ここは標高が高いから」というのだが、地質も影響しているような気もする。一応、土壌サンプルは採取できたので、あとで調べてみたい。ちなみに、この国には原発はまだないはず。

この研究所には野良犬がとても多いのだが、実は町中にもたくさんいるらしい。かつて流行で買われていた犬が、経済の崩壊で捨て犬となり、野生化したのだと説明を受けた。狂犬病がときどき流行るらしく、そうなると町中大騒ぎになるとか。そういえば、狂犬病は死亡率100%であった...

2015年10月28日水曜日

上空から見たフランス

仕事でパリに行った。CDGに降り立つのは初めて。英国からEurostarでGare du Nordに降り立つというのが、いつもの行き方なのだが、今回はいろいろと面倒くさいことがあって、仕方なく悪評高いCDGに、悪評高いAir Franceでいくはめになってしまった。

案の定、この日はストライキのど真ん中...(リストラ対象者の怒りは凄まじく、執行部の服は破かれたらしく大変なことに...)フランス人の友人にいろいろと情報を教えてもらう。この友人はパリではなく、ストラスブールの研究者なのだが、なんとエールフランスは使わないのだという。私たちの話しをよこで聞いていたドイツ人、イギリス人の友人たちは「うーむ」と唸った後、「さすがはフランス人。よくわかってる!」と賛嘆した。運の良いことに、私がCDGに到着した日は労働者と経営者の間で話し合いが再会された日のようで、空港全体が閉鎖なんてことにはなってなかった....本当によかった。

ところで、パリに行く途中に見えたアルプスが素晴らしい景色を見せてくれた。
French alps from Air France
上の写真を撮った後、アルプスの峰峰に雲が海原のように沸き出して、最後は白い海に浮かぶ島々のようになったのは、とても素晴らしい景色だった。
アルプス山脈なのに、白い海に浮かぶ島のよう。

しばらくすると、広大なフランスの小麦畑の平原が現れ、そして間もなくパリ到着という時になって、眼下に現れた不思議な雲...よく見たら原発から流れる蒸気であった。
眼下に伸びる不思議な雲の正体は....
Nogent Nuclear Power Plant.

Nogent NPPの拡大図
パリの南西100キロメートルほどの場所にあるというこの原発は、後で調べてみると、Nogent NPPという原発で、ちょっと前に反原発のグループが侵入に成功し、垂れ幕を掲げた原発であることがわかった。飛行機だと、ここから、ものの数分ほどで凱旋門が見えてきたので、その近さに驚いた。

そういえば、先ほどのフランス人が、「フランスでは、ワインの放射能検査が行われていて、年代別にどれだけセシウム汚染があるかよくわかっているんだよ」と教えてくれた...チェルノブイリ事故の影響が汚染原因のほとんどだろうが、先ほどのような景色を見てしまうと、その汚染は意外と「自前」のものだってあるのかもしれないと思ってしまったのであった。

今回の旅行では、残念ながらパリの土壌採取はできなかった。件のフランス人は、「フランスには、結構あちこちにホットスポットがあるんだよ!」と教えてくれたので、興味深い。次回は是非!

CDGで買ったワインはChateau Brownというボルドーの赤ワイン。年代はもちろん1986年よりはるか後の「2010年」もの。いくらビンテージといっても、1990年とか、1988年とかのワインは避けた方が良さそうだ。ちなみに、この赤ワインを飲んでみたら、渋みにアクセントがある非常に美味しいワインだったので、満足である。

2013年12月30日月曜日

英国旅行(3)

海岸からの帰り道、ちょうどお昼の時間となったので、Petworthという街によった。ここは平原の中にぽっこりと膨らむ小さな丘の上に王族の館が築かれ、それを中心として街が発展した。あたかも城郭都市のようなところだ。現在は丘の頂きに時計台が立っていて、南イングランドの平原を走っていると、地平線の彼方にその姿が見えてくる。すると、なにか救われたような、家にたどり着いたような、そんな不思議な気分になる。館にはターナーを始めとする国宝級の絵画、彫刻が収蔵されていて見学することができる。たしか、スコットランドのメアリー女王(Mary queen of Scots)の肖像画があったのを記憶している。
Petworth houseの森
残念なことに、この館は冬は閉館なのだ。しかもレストランは工事中だった。来年以降に楽しみは残しておこう。ここは、春先の水仙の乱れ咲きが有名なのだが、紅葉も意外に美しいことが今回初めてわかった。「腹は空けども高楊枝」風にいえば、南イングランドの紅葉を満喫できて本当に満足であった...

見晴し台を臨む。この裏に広大な平原と湖があって、
無数の野生の鹿が群れをなして自由に暮らしている。
画家のターナーもその景色を描き残している。
お昼を食べ損ねたので、宿のある街までもどり、ちょっと遅い時間だったが、その街一番のイタリア料理を食べる。ランチメニューということで、ボロネーゼとミネストローネ。そしてティラミス!この店はHighstreetにあるので、細々とした用事をこなし、そして買い物をすませる。

夕食は、英国人の友人たちとフランス料理へ。住んでいた頃はいったことなかったのだが、こんなに美味しいのだったらもっといっとくべきだったと後悔。楽しい時間をすごすことができた。翌日は大学でセミナーをしたり、議論したり、共同研究の予定を立てたりして忙しくする。宵の時間にヒースロー空港より日本へ向けて出発す。

2013年12月29日日曜日

英国旅行(2)

滞在初日は、馴染みのインド料理屋へいって、いつものパパドム、ラムバルティ、サガルーなどを味わう。この店には、インドのビールが2種類あって、「コブラ」と「キングフィッシャー」というのがある。この日は、久しぶりにキングフィシャーを飲んだ。軽い味で、冷たく冷やして飲むとインド料理にぴったり!

翌日のBread & Breakfastの朝食はタマゴサンドのクロワッサンと紅茶(イングリッシュブレックファースト)。それにドーセットシリアルと缶詰果物。お腹を一杯にしたところで、この日は一気に南下してハンプシャーの海岸に化石採集にいくことにした。

この場所は以前にも頻繁に来た場所だったのだが、久しぶりだったせいか、途中Chichesterで迷ってしまった...この街はなぜかいつも混んでいて、中心部に入ってはならないのだが、今回は足を踏み入れてしまった。苦労して脱出。そして、久しぶりのBracklesham bayにやってきた!


この日もそうだし、以前来た時もそうだったのだが、内陸部がどんより曇っていても、(文字通り)この湾から先だけが晴れ渡ることがある。雲の境界がくっきりしていて、不思議な光景となる。遠浅の砂浜だが、干潮時間の直後にやってきたせいで、水位は少しずつ上がって来ていた。しかーし、今回の旅ではWellington bootsを購入してあったので、まったく水を気にせず浜辺を歩くことができた。冬の海岸での採集に、防水ブーツは必須のアイテムではないだろうか?

この浜辺での化石採集は、波打ち際を歩いて探し、見つかったら拾い上げるだけ。たとえば、こんな感じ。
Vernicor  planicosta
この巨大な二枚貝(Vernicor planicosta)はここでもっとも採集できる化石。狙うは合弁のもののみ。巻貝はTurritella imbricatariaが比較的たくさん産出する。
Turritella imbricataria
今回はこの手の貝殻はすべて捨て置いて、狙いをサメとエイの歯に絞る。およそ45分ほどで、ひとつづつ採集することができた。潮が満ち始めの時間帯としては、上出来だろう。

サメの歯の化石
最後にビーチの礫部で線量測定。ここも問題無し。

街に戻る途中、丘の上に築かれた城郭都市があり、そこで休憩することにした。

2013年10月28日月曜日

双子山へ

秋晴れの陽の下、大河原峠から双子山へ登った。
途中ふりさけ見れば、蓼科山と横岳の間から南アルプスが雲海の上に浮かんで見えた。



紅葉はすっかり終わり、眼下に広がる山麓へ下りてしまっている。とはいえ、白樺の幹が白く目立ち、針葉樹の緑がパッチワークのようになっている。紅葉はさらに下の里の方にまで下りてしまっているようだ。手前の落葉松の黄色は、紅葉の終わりを告げている。高山の秋は既に晩秋に入ったのだ。
大河原峠から眼下を望む
双子山の山頂は大きく景色が広がっていて、晴れていれば爽快な気分が味わえる。遠くに見えるのは秩父や群馬との県境の山々だ。これだけの景色が見えるということは、実は、ここは放射能プルームが信州に突入したとき最初に引っかかる場所に相当する可能性があるということだ。今回は調査道具を持って来なかったが、再訪してこの峰はよく調査する必要があると感じた。
双子山の山頂

2013年10月27日日曜日

秋の終わり

おそらく今年最後であろう台風が去っていった。大島の土砂崩れに追い打ちがかからなかったのは幸いだったと思う。ただ、あちこちで被害を残していったらしいが。

一晩明けて秋晴となった。晩秋を感じるのは気温の低下のせいだろうか?紅葉も随分里まで下りてきた。

中央道を下る。まずは、甲府にて富士を眺める。東京からの丹沢越しでは雲に隠れて見えなかったのに、さすがにここまでくると雲は退いてくれるようだ。それでも、御坂山地越しの富士は久しぶりのことではないだろうか。甲府にはまだ紅葉は来てないようだ。お昼に、山梨育ちのワインビーフの焼き肉を、山梨米に敷き詰めた焼き肉重を食す。美味なり!
甲府から見た富士。
信州に入る。紅葉は里まで下りてきていた。IC周辺は鮮やかな赤、オレンジ、黄色の紅葉で彩られていて、まったくの別世界に迷い込んだようだ。牧場近くのカフェはお休みで、少し離れた所にある別のコーヒー店で一服した。ストーブの火が心地よかった。
八ヶ岳山麓の紅葉
山を下ると、金星が山の上に輝いていた。もうすぐ東方最大離角を迎えるため、かなり高度は高くなってきている。
金星と夕焼け
この日の夜は、海王星、冥王星の観測にチャレンジした。水瓶座と、うお座をマスターした。これからひと月毎に観測を続けていけば、最果ての氷の惑星の逆行が観測できるはずだ。

それから、CD-1の練習のために、M31(アンドロメダ銀河)を撮ってみた。今回はピント合わせにこだわってみた。夜露がキツかったので60秒露光で2枚撮ったところで断念したのは残念。






2013年9月23日月曜日

中秋の名月2013

今年の中秋の名月は箱根で見る。東名を東に車を走らせていると、足柄山の陰より大きな満月が、昇っては沈み昇っては沈む。でこぼこの外輪山が成せる技なり、と感心する。

写真を撮るため足柄SAに止まるも月すでに高く昇る。夕焼けの富士も暗闇に没し、機会を逸す。カレースープをナンで食してから帰路に着く。

2013年9月5日木曜日

奈良井宿へゆく

8月の終わりに奈良井宿へ行った。歴史的には当然「木曽」地域なのだが、小泉政権下でやった市町村統合の悪影響を受けて、「木曽の奈良井宿」は「塩尻市奈良井」になってしまった。なんだか興醒めだ。

とかなんとかぐちゃぐちゃ書いても、奈良井宿が素晴らしいことには変わりない。
奈良井宿
五平餅とおやき。木曽のは信州の他の地域のとはちょっと感じが違って、とても美味しいと思う。奈良井宿の通りには、他にも蕎麦やら茶屋やらがずらーっと並んでいて、どこに入ろうか迷ってしまうほど。今回は、しかし、夏の陽光を楽しむために、奈良井宿っぽくないけれど、テラスのあるカフェにいくことにした。場所も街道からちょっと外れた場所にある。目玉料理らしき「百年前のカレー」もよかったが、ここは「水出し珈琲」がなんといっても一番。おかわりしてしまった。

奈良井宿の「手前」には、木曽平沢という漆器工房の村がある。ここの工房では、長野オリンピックのメダルを製造したという。ある漆器店の主に「漆塗りの金メダルだったんですね」と尋ねると嬉しそうに頷いていた。木曽には腕のいい漆器職人も多いけれど、いい家具職人もたくさんいる。山中の工房に独り籠ってもくもくと素晴らしい家具を作りつづけている。そんな職人のひとりを紹介してもらって、工房を訪ねてみることにした。

木曽の山の中に入り込むのは実は初めてのことだ。細い道を縫って緑の森の中に分け入る。やがて、ぽっかりと穴が開いたように森が無くなっている場所があって、そこに工房があった。周りに倉庫が並び、木材がうずたかく積み重なっている。木の歪みをとるために、寝かせてあるのだという。職人の方と話をして、机を作ってもらうことになった。すると、倉庫の中に入ってゴソゴソやっていたかと思ったら、大きな欅の板を二枚持って出て来た。一見、誇りだらけで汚く見えたが、30年寝かせた板だという!しかも、その樹齢は伐採時およそ300年程度だろうという。江戸時代から昭和にかけての300年間を木曽の森で暮らした立派な欅の木の板なのであった。なにもかもが素晴らしい。自然な風合いを生かして、卓を作ってもらうことにした。秋の終わりには完成するという。雪が降る前の、山々が紅葉して赤くなった頃に受け取りに戻ろうと思う。


2013年7月6日土曜日

余談(2):フランクフルトにて

チューリヒにいく夢を断たれ、呪いの街フランクフルトに行くことになってしまった。

新しいe-ticketを印刷するために、Swissのwebページから手続きをしようとしたが、ルフトハンザの便なので、ルフトハンザのホームページからやれ、と指示が出る。仕方なく従うと、最初は英語で処理できるのだが、最後の肝心なところで表示がすべてドイツ語となる。大学の教養で習ったのはドイツ語だった。それは「アインシュタインの相対論の論文はドイツ語で書かれているぞ。物理を志望する学生は、第二外国語はドイツ語にすべし」などという友人の助言を聞いたからだ。しかし、現実は、ルフトハンザのホームページを解読するためにドイツ語を習う運命だったとは...神様もいたずらが過ぎる。

苦労してe-ticketを打ち出したのはよいが、Web check-inを試みるべく色々試す。しかし、どれもうまく行かない。仕方がないので、時間がさらに奪われることは知りながら、ルフトハンザに電話することにする。オペレーターは日本人だったので、昨年の出来事を説明し、苦情を伝える。謝罪の言葉はもらえたが、ビジネスに格上げされる訳でも、割引が適用される訳でも、マイレージが加算されるわけでもなかった。これが、冷徹にビジネスに邁進するドイツの文化なのだろうか?(ハワイのレンタカー会社や航空会社に現地でボラれたときは、その日本法人に苦情を言った。そうしたら色々と弁償してくれたので、「また行ってもいいかな」ぐらいには気持ちを戻すことができた。が、ドイツはそういうところはまったく気がきかないようで、やっぱりなるべく関わりたくない。)

搭乗前のゴタゴタはここまでで、その後は比較的うまくことが運び、成田から無事出発できた...と思った。一つ確実に良かった点といえば、この日の機内がかなり空いていたこと。右横は日本人が座ったが、左は空席だった。しかし、実はそれには理由があった...振り替えてもらったこの便は、Airbusの新型A380だったのだ....2005年に就航したこの新型機は、なんと客席が(エコノミーも含めて)2階建てになっている化け物で、しかも通常の感覚だと「そろそろ船尾かな」と思うような奥まで歩いていっても、まだ先があるという、ものすごく長い飛行機でもあった。このマンモスジャンボ機は、数年前にエンジントラブルを起こしていて、やっぱり「新型機の見切り発車」であることが判明していた。できれば乗るのは避けたかった。しかし、出発前日に旅程が変更されるというゴタゴタに巻き込まれ、そこまで確認するのを怠ってしまった。まず怖かったのが離陸時。機体が重いせいか、なかなか離陸しない。加速も鈍い感じがする...こういうのは心臓に良くない。(なんとかかんとか、離陸してやっとやっとで高度を上げている感じ。どんなにガラガラでも、もう二度とA380には乗りたくないと思った。

しかも、機内食がまずい。豚肉のトマト煮だった。どんなにトマト料理が好きな人でも、この臭い豚肉には閉口するはずだ。一口食べてやめる。隣りの人も食が進まないようだ。

シベリアのど真ん中に到達したあたりで、隣りの人が乗務員を呼んだ。どうもビデオシステムが壊れていて、映画が楽しめないらしい。ルフトハンザ、you are so fantastic!

A380の着陸は離陸より怖かった。とはいえ、それは着陸してしばらく経ってから、鳥肌が次第にたってくるような感じだ。パイロットはかなり腕がよかったと思う。タッチダウンの直前まではまったく危なげなかった。が、最後に急速に失速してドシンと尻餅をつくような感じの着陸だった。重すぎて、失速したときに揚力が急になくなったのではないだろうか?とにかく、もうA380には乗りたくない。(周りの乗客もざわついていたから、あの落ち方にはかなり皆驚いたんではないだろうか?)

フランクフルト空港で、フィレンツェ行きの便に乗り換える。今回も長ーい長ーい連絡路を小走りで急がないと、危うく乗り遅れるところだった。カウンターにいる係員に確認したところ、今回はバスによる移動はないとのこと。

ドイツの曇った灰色の空を抜けると、やがて緑が濃いフィレンツェの丘とそこに生えるトンガリ帽子の形をした針葉樹の森が見えて来た。やれやれ、今回は予定に近い形で、なんとか目的地に辿り着けそうだ。手荷物受け取りで、何人もの知り合いに出会った。一緒にフィレンツェの街までバスで移動する。そして、待ち合わせて、おいしいイタリア料理を駅近くのレストランで楽しむことができた。ここは、Chianti Classicoの産地であった!知らなかったのだが、これは単なるChiantiと比べて値段が倍もする。思い切って頼んでみると、日本で味わったことのないような素晴らしい味がした。残念ながら銘柄を失念してしまったが、一緒にいった知人が写真に撮っていたので、あとで尋ねてみよう。

ちなみに、帰りの便は、スイス周りで当初の予定通り帰れるとのこと。何事も起こらないことを、フィレンツェのありとあらゆる教会で祈りまくることにした。

到着直後の夕方のフィレンツェ。ホテルのベランダより。




余談:フィレンツェに至るまで

余談だが、フィレンツェに至るまでの出来事をメモしておこう。

航空券を予約した段階で、Boeing 787はバッテリー等の不具合のため、世界中で運航禁止となっていた。やはり新型製品には問題がつきものだ。電化製品でも、車でも、PCでも、なるべくは新型の製品は買わないようにしている。

工業製品というのは、満足いくまで開発しきってから市場に投入するのは稀有で、技術の内容の理解が薄い、営業とか企画部門の人々からせっつかれる形で、ある程度「モノ」になると判断されると、見切り発車で販売されてしまうことが多いと思う。こんな感じで、焦って利益を確保しようとする経営者は、長い目で見れば、必ず失敗作を世に送り出すはめになる。長い目で見なくても、こういうやり方でモノを売るならば、大抵の製品は「欠陥品」のまま売りに出されているといってもいいだろう。消費者に買わせ使わせて、性能を「実験」させる。そして、苦情が来る度に改良を重ねる。だから、発売してからしばらく経ったモデルの方が、必然的に完成度が上がる(苦情の多かった分だけ)という訳だ。

ボーイングの新型旅客機787も、飛ばしてみたら性能に問題があることがわかり、「改良のため」世界中の空からしばらく姿を消すことになった。だから、今年の春の段階では、安心して全日空で予約できるものと考えていた。Web予約をして、「今回は早めに予約できてよかった」と余裕をかましていたら、そうは問屋が卸さなかったのだ。ある日、何の気無しに予約したフライト情報を眺めてみたら、運航機体が"Boeing 787"となっているではないか!よく調べてみると、6月1日から見切り発車で運航を再開する予定だという...これには驚いた。

予約した時は、世界中の政府機関で787の安全性は認められていなかった。だというのに、日本の国土交通省の審査にはどうせ通るだろうから、という予測に基づいて、全日空は6月1日以降の欧州便に787を使うことをかなり前から決定してしまった。この事実を知って、慌てて予約をキャンセルし、別の便で行こうとしたがフィレンツェ到着が夜中になるものばかり。「仕組んだな!」と叫んでみても状況は変わらず。そこで別の航空会社にあたりを付けてみることにした。

無駄な時間を費やして、いろいろ調べた結果浮上して来たのがスイス航空。スイスの国営航空(Swiss Air)だったが、事故と9-11の影響で2002年に破綻してしまった。現在はその後継会社のSwiss International airlinesと名前が代わり、こともあろうにルフトハンザの子会社になってしまった....とはいえ、フィレンツェ到着が夕食前の午後6:30、かつスイス航空の実際の運航/運営はスイス人がやるだろうからという希望と、中継地がチューリヒであるという3点の理由により、今回はスイスに決めた。チューリヒは昨年行ったジュネーブと違って、チェルノブイリの影響を大きく受けたとされる。そういう意味でも、チューリヒに降り立ってみたかったのだ。

首尾よく予約の変更もうまく行き、出発を翌日に控えた。と、一通のメールがswissから届く。
SWISS FLIGHT INFO -AT PRESENT WE EXPECT A DELAY OF APPROX. 3HRS 30MIN.WE APOLOGISE FOR THE INCONVENIENCE. REGARDS SWISS
なんだこれは?!これに続いて、次のようなメールが数時間後に届いた。

Dear SWISS guest 
Your flight LXxxx/xxJUN is delayed. Your connection in Zurich is not confirmed anymore. Therefore you have been rebooked onto LXxxxx/LHxxx via Frankfurt. New departure time Zurich: 19.05h. New arrival time Florence: 22.50h. Your ticket is prepared for check-in at the airport or via web. We apologise for the inconvenience 
Regards 
SWISS 
"My connection in Zurich is not confirmed anymore"だと?!!!なんで、フィレンツェの前に、フランクフルトにいかなくちゃいけないんだ?2回も乗り継ぎ?なんだそりゃ?!しかも、フィレンツェ到着が夜中の11時?それが嫌だからスイス航空にしたんじゃないか!、などとパニック状態になる。慌てて電話をかけ状況を確認することにする。いつものように随分待たされてから、オペレーターにつながった。(ただでさえ旅行の準備で時間が足りないのに、学会の準備に大きなダメージが.......)

原因は、機体修理であった。コックピットの窓が破損し、交換を余儀なくされたため、成田にしばらくこの飛行機は釘付けにされてしまったようだ。修理が終わるまでは飛行許可が下りないとのことで、出発が3.5時間遅れてしまうのだという。このため、チューリヒでの乗り継ぎが間に合わなってしまった。チューリヒからフィレンツェに飛ぶ便はそれがその日の最後だという。つまり、チューリッヒで一泊するか、フランクフルトに一端移動し、(私が当初避けていた)夜の便を使ってフィレンツェに到着するかどちらかだが、スイス航空としては後者の手配をしておいた、というのだ。フィレンツェの宿はすでに予約していたので、イタリア語で事情を説明し、キャンセルの手続きを自腹を切らないよううまくやる自信はなかった。しかたないか、と思ったが、日本人のオペレーターに変わると、「どうです?最初からルフトハンザでいきませんか?そうすれば、夕方にフィレンツェに着けますよ。」と誘いを受けた。「二度と使うもんか」と心に誓ったルフトハンザ、そして「二度行くもんか」とこころに誓ったフランクフルト。しかし、利便性のことを考え、折れることにした。こうして、皮肉なことに、2年連続でフランクフルトの土を踏むことになってしまった...出発前だというのに、敗北感がすでに漂い出していた。


2013年5月4日土曜日

久しぶりの高峰

高峰に久しぶりに登った。大部融けたけれど、先日の雪がまだ深く積もっている場所があちこちに残っていて、雪に足を滑らせながら尾根道を歩くことになった。天気は上々で、5月の初めの青い空がきれいだった。とはいえ、空気は冷たくて、さながら冬の山を歩いているのではと錯覚する場面もあった。

雲に隠れ気味ではあったが、富士が甲武信の向こうに見えた。富士の高嶺に雪は降りつつ...といった感じの真っ白な嶺だった。
富士、甲武信、そして茂来山(車坂峠より)
高峰から望んだ、富士山の拡大図
八ヶ岳、そして木曽駒の中央アルプスはよく見えた。八ヶ岳の裏に南アルプスが隠れているのが見えた。赤石岳、それとも甲斐駒?そして佐久平が広がっていた。この地に放射能を帯びた焼却灰を、関東やらあちこちから持ち込むなんぞ愚の骨頂だと誰も思わないのだろうか?
八ヶ岳、蓼科、そして佐久平。
写真中の矢印は、放射能を帯びた焼却灰の最終処分場がある場所。
高峰高原は、高崎や前橋などから見て、浅間山の「裏手」にあたるため、セシウムによる汚染は低いと思われる。DoseRAE2を用いた簡易測定を今回やってみたが、0.05μSv/hから0.10μSv/hの間の数値を示した。低めの値が出る場所は、浅間山の影になっている場所で、東側の遠景が望めない場所。一方、高めの値が出る場所は、浅間山の影から南側に少し抜け出ている場所で、軽井沢や御代田が見える場所。今回は雪が深く、高峰山自体にいくことはできなかったが、途中までの尾根線で調査することができた。車坂峠付近の高峰高原全体の平均値は、だいたい0.07μSv/h程度だった。

高峰高原ホテルの裏手にある山の山頂にて。
0.05μSv/hだから、かなり低い。
高峰高原ホテルのスカイレストランで昼食をとった。ビーフカレーを頼む。辛めの味付けだが、とてもおいしい。ハンバーグや信州牛のステーキなんかもおいしそう。なによりも、ここの丸パンは絶品だ。お土産用に包んでもくれたので、たくさん買い込んでしまった。クロワッサンを家に戻ってからカマンベールと一緒に食べたが、やっぱりおいしかった!

そういえば、久しぶりにここの温泉にも浸かった。ナトリウム塩化物系の成分で、肩こりや筋肉痛に効く。実際、首周りが随分軽くなった。貸し切り状態で、一人で広い湯船と、佐久平と信州の山々の絶景を楽しむという贅沢を味わうことができた。

2013年4月16日火曜日

広島を訪ねる(3)

広島市中心部の調査は友人に依頼して行った。測定/採集地点は(1)平和公園付近、(2)広島城周辺の2点。本当は河原に降り立って、昔修学旅行で聞いた噂「河原に落ちている割れた瓦などにガイガーカウンターを近づけると今でも反応する」を確認してもらいたかったが、時間的な余裕がなかったとのこと。いずれにせよ、貴重なデータが手に入ったので嬉しい。以下は伝聞情報をもとに、広島の様子を書き下した(若干の私見混入あり)。

広島駅から出る路面電車に乗って、まずは原爆ドームのある平和公園の方へ向かった。路面電車は思いのほかゆっくり広島の市街地を走り抜ける。原爆ドームで下りる人多数あり。この「遺跡」の周りは見学者で囲まれていて、外国人と日本人の比率は半々程度。核爆弾によって破壊されたそのままが残されている。これは広島の人にとっては大変なことだったと思う。2年前の東北の大地震とその後に襲来した津波が破壊した建物や船舶を、記念に保存しようという動きはあったが、東北の人々をそれを嫌った。むしろ早く撤去して壊してもらいたいと要望した人が多かったそうだ。早く忘れたい、早く昔の生活に戻りたい、という気持ちはわからないではない。むしろ普通の反応だろう。それだけに、広島の人々が、アメリカ軍による非人道的な殺人兵器で人間とその生活と木っ端みじんに破壊された「敗北」の象徴を保存しようと決めたというのは、勇気のあることだし、尊敬するほかはない。
広島の原爆ドーム。桜が咲き始め。
ドームのすぐ外側で線量を測定したが、際立った値は出なかった。むしろ東広島より低い。原子爆弾による放射能汚染はもう残っていないのだろう。橋を渡って平和公園に移動する。ここには原爆資料館がある。この建物、以前からあまり好きじゃなかった。ドームの丸屋根の曲線と比べて、シャープな直線や箱型の形状がなんか刺々しい。

長崎の資料館もあまり好きじゃないが、でも長崎の平和公園は好きだ。あの平和の像とそのまえの噴水。ふんだんに流れる水流の脇にある山口さんの言葉や峠三吉の詩を刻んだ石碑が飾ってあって、それを読むと涙が出る。清らかで豊かな水の流れには、原爆の熱と放射線に焼かれて死んでいった人たちの、渇いた喉にしみ込むように...という祈りが感じられる。

広島にはドームがあるからいいようなものの、それは戦争がつくったものだ。平和の灯火とかいう大きな香炉があるけれど、火で焼かれて死んでいった人を、火や煙で弔うのは残酷だと思う。戦後の人たちは自分たちの手で(広島には)平和公園をつくることができなかったのかもしれない。

平和公園で測定した線量値は0.08μSv/h。東京の西側と同じくらい。もちろん、その内実は随分違うと思うが。
平和公園での線量測定の様子
平和公園を後にして広島城へ。知らなかったのだが、安土桃山時代に建立された、かつての国宝だった城は原子爆弾で破壊されたのだった。改めて、戦争の無意味さを実感す。再建されたものは鉄筋コンクリートだそう。できれば「復元」して欲しかった。
春の広島城
城郭内に入り、石垣の影で測定を行った。平和公園とは違い、東広島に近い高い線量が観測された。0.14μSv/h。平和公園の土は造成のため、外から持ち込んだものなのだろう、きっと。城内の土壌は昔のままだろうから、きっとこれが広島市の本来の自然放射線量なのだろうと思う。
広島城内にて。




広島を訪ねる(2)

広島大学の東広島キャンパスは、とにかく「ばかでかい」。一つの会場から別の会場に移動するだけで15分はかかってしまうのではないか?キャンパスの真ん中にはこの地域特有の溜め池があって、漱石の草枕に出て来た山間の桜の場面を思い出させてくれた。このとき、広島は桜の始めだった。
広島大学の「ぶどう池」
キャンパスは自然がよく残っていて、山の斜面をそのまま土がむき出しのままにしてある。地学の先生からのアドバイスなんだろうか?不整合面が観察できる露頭が残されていて、説明板が設置されていた。とても勉強になる。

それによると、この地域は花崗岩の母岩に、堆積層が乗っかっているのだそうだ。たしかに、この周辺の丘のような山々の所々には花崗岩の露頭があった。広島の自然放射線量が高いのこの母岩のせいだ。花崗岩は風化すると鉄分が出てきて、土を赤っぽく染めるようで、大学内の崖は赤い色をしている場所が多かったのが印象的だった。大学の中にはこのような崖があちこちに残っていて、調査がやりやすかった。
キャンパス内にある断層の露頭とその説明板
土壌サンプリングと線量を測定した場所も同じような場所で、赤い土が特徴的だ。実は、東広島の民家の屋根瓦を見ると、ほとんどが赤というかオレンジ色をしている。これもこの土地の土を使って焼いた瓦だからだろう。この赤い屋根瓦は西条瓦というそうで、明治の頃より普及しているとか。

調査地点の様子
DoseRAE2は0.15μSv/hを示した。
この日はしとしと雨が終日降っていた。もしかするとビスマス214の影響があったのかもしれないが、それでも0.15μSv/hというのは結構高い線量だ。これは原爆の影響が残っているからでもないし、福島原発の放射性プルームがここまで到達したのでもない。大地の持つ自然放射能の影響のはずだ。結論はベクミルでγ線のスペクトルをみてみれば出る。

ちなみに、福島原発からの放射性セシウムによって土壌が汚染された東大本郷キャンパスでは0.13μSv/h、同じく汚染の強い渋谷の代々木公園が0.12μSv/hなどという測定結果がこれまでに出ている。(東大はほぼ2000Bq/kg、代々木公園は1600Bq/kgの放射能が土壌から検出された。)

広島市の中心部は、東広島キャンパスからは結構離れていて、残念ながらなかなか気軽にいくことができなかった。そこで、広島のホテルに滞在した同僚に調査測定を依頼し、代わりにやってもらうことにした。この日と打って変わり、汗ばむような春の一日となった晴天の下での調査となったらしい。

私はというと、広島見物は、雨の降る中、車で中心部を駆け抜けただけとなった。原爆ドームや広島城も車内から見ることはできたが、広島の中心街は駐車場を見つけるのが大変で、車を止めてゆっくり歩き回ることができなかった。(駐車場は大きいのがあるのだが、平和公園からは結構歩く距離にある。雨降りの日にはちょっとキツいものがあった...)また、広島の「右折レーン」という独特のローカルルールに少し戸惑ったのもある。路面電車も走っていて、ちょっとパニック状態となった場面もあったかもしれない。それにしても、右レーンをがら空きにして、左レーンにぎっしりと車が並ぶというのは、いったいなんなんだろう?

広島市の調査へ続く

2013年4月14日日曜日

広島を訪ねる(その1)

学会が広島で開かれたので、参加してきた。瀬戸内にしては天気があまりよくなかったのが残念だった。初日こそ晴れて咲き始めた桜などを楽しむ余裕もあったが(驚いたことに東京より開花が遅いらしい)、その翌日は終日雨となって、ズボンの裾がびしょ濡れになったり、論文に雨の滴の染みが残ったりと、惨めな状態になった。それでも、共同研究者と議論したり、おもしろそうなセッションに出向いて質問したりと、物理学者として有意義な時間を久しぶりに過ごすことができて満足した。そして、その合間を縫って、放射線量等の測定を行った。

言うまでもなく、広島は原爆が炸裂した街だ。その影響は100年残るとか、草木はもう生えないだろうとか、いろいろなことが当初は言われたという。ところが、60年代に大阪で万博が開かれた頃になると、街は「復興」し、原発を歓迎するような雰囲気にまでなっていたらしい。つまり、一見して放射能の影響はなかったかのように、広島の街は再興した。外国人にも「広島の放射能汚染は今はどうなのか?」と聞かれることがあるし、自分自身も子供の時にまったく同じ疑問をもった。高校の修学旅行で広島に初めて行ったときに聞いたのが、「今でも河原に落ちている屋根瓦の破片などが放射能を示すことがある」という伝聞情報だった。若干の汚染は残っていても、もう大丈夫なんだ、という感触を得たのを覚えている。今振り返ってみると、正直言ってこの修学旅行は「ボケ茄子」以外のなにものでもなかったと思う。広島の博物館や記念館は、写真や絵を使って恐怖だけを植え付けようとするだけで、放射能汚染や核兵器の科学的な説明と、それにもとづいた怖さに関する情報が決定的に不足している。長崎でも同じ感想をもった。そして、同じような感想を英国人の友人達(物理学者)も語っていた。

まず、目から鱗が落ちたのが、日本地質学会の自然放射能強度の分布図を見たときだ。関西のバックグランドレベルが高いことは、昨年の六甲探訪の時に確認したし、同僚から「岡山辺りが結構高い」という話を聞いていたので、知っていたのだが、まさか広島がそれを上回る高レベルにあるとは知らなかった。今まで調べなかったのは、迂闊だった。
広島周辺の自然放射線量の分布図。
赤い領域は0.13μSv/h以上に相当する地域。
東広島から広島、そして岩国に至るまで広い範囲に高線量地帯が広がる。
これらは花崗岩の分布と一致する。
この分布図を見ると、修学旅行の時に聞いた「広島の河原ではガイガーカウンターが今でも激しく鳴る」という話を、原爆の影響が残っている証拠だとそのまま鵜呑みに思ってはいけないことがわかる。広島のバックグランドレベルが高いことの影響かもしれないからだ。やはりαにせよ、γにせよ、スペクトル分析しないと結論は出せない。

学会は広島大学の東広島キャンパスで行われたので、まず広島の東側の調査から始めた

2013年1月21日月曜日

雪の蓼科の夕日

寒い。湖の氷は完全に凍りついていた。しかし、日が長くなってきているのを感じる。天体観測がやりにくくなったのは困るが、遠出をしても日があるうちに宿に着けるようになったのは嬉しい。5時を過ぎてもまだ明るさが残る。この間の大雪の残りも間もなく消えてなくなるだろう。真冬の姿をしていても、陽の光には春の兆しがある。

とはいえ、日が沈むと、とたんに冷え込んで、あっという間に気温は氷点下10度近くとなった。西日が斜面にあたって青空に浮かび上がった蓼科の雪は、まだまだ手の届かない場所にある。

暗くなり始めた頃、近くの珈琲屋に入った。暖炉で体を温めてから、珈琲を飲む。のんびりしたいところだが、道路が凍結しないうちに移動しないと大変なことになるので、急いでカップを傾けた。

「酷寒、暗闇、人気無し。車が脱輪困ったな。」なんてことにならなくてよかった。

2013年1月9日水曜日

「サイコ」の看板

道路を走っていると、「サイコ」という看板があった。工場なのか、会社なのか、プレハブ状の建物が脇に立っていた。まず思ったのがヒッチコックの”サイコ(Psycho)”。曇り空の下、なんとなくそんな感じがしないでもない....

西湖と富士と樹海
西湖にまた来た。実は、初めて来たのは年末の大雪のとき。(もしかすると小学生の時、学校の旅行で通ったかもしれないが。青木ヶ原で休憩したのは覚えている。)西湖の岸辺には溶岩台地が迫っていて、その上には深い森がある。そこはもう樹海の一部と言っていいのではないだろうか?

西湖の周辺を走っていても、富士山はなかなか見えない。どうりで、店やレストランがないはずだ。しかし、西の端まで走ると、突然、大勢の人が岸辺に下りてワイワイガヤガヤやっている場所が現れる。「なんだろう?」と近寄っていくと、湖の向こうに富士の偉容が現れる。「なるほど、そういうことか」と得心するはずだ。

先日の大雪が嘘のように、樹海からも、里山からも消えていた。あの日は富士は雪雲の中だった。が、きょうはよく見える。さすがに富士の樹海に向こうにそびえ立つ富士はでかい!

初夢に富士を見るならサイコかな

もちろん3つの掛詞なり。

TSUTAYAに行きたくなった。


2012年12月30日日曜日

吹雪の霧ヶ峰

雨が2日続いた。この季節に。信じられないことだ。たしかに暖かい。気温は氷点下になってない。この間の大雪から一転して、「暖かい」冬になってしまった。楽しみにしていた山の雪も、白樺湖まで雨、という信じられない状況。駐車場は満車なのに、スキー場のゲレンデはガラガラ。おかしいなと思ったら、スキー場の客たちは「雨宿り」をしていたのだった...まことにお気の毒。土砂降りの雨の中、スキーをするなんてやったこともないし、見たこともない。普通は、吹雪いて大変だったとか、雪がひどくてレストランで休むとか、そういうのがいつもの風景だと思うのだが。

それでも、蓼科山や車山は鼠色の雲に覆われていたので、あそこまで登ればきっと雪になっているはずと期待し、登ってみる事にした。いつもなら、先日のように積雪にハンドルを取られながら、命がけで登る斜面の道も、今日は雨で路面が露出している。脇には先日の雪がうずたかく積もっていたので、辛うじて冬の景色は停めてはいたが。(それでも、前を走っていた三河ナンバーの車には大変だったようで、滑ったのか、その雪の中に突っ込んだ...) それにしても、富士見台まで登ってもまだ雨とは...霧ヶ峰の年の瀬に、雪じゃなくて雨が降るなんて驚きだ。

さて、さっきの三河ナンバーの車を抜いた後、車山肩の駐車場にて車を降りる。雨はようやく雪になった。駐車場は一応雪かきはしてあるものの、車を止めるスペースはほとんどない。一、二台で一杯一杯といったところ。もちろん、誰もいない。店も冬期休業中。

横殴りの吹雪が冷たい。気温が「高い」せいか、ビチャビチャの雪だった。すぐに靴とズボンが濡れてしまう。このまま頂上までいったら、遭難すること間違い無し。天候が回復する気配もなく、装備も弱かったので、30分ほどで引き上げる。車にもどり、紅茶を飲んで一息いれる。

それにしても、これが冬の霧ヶ峰? ちょっとイメージと違う。真冬の霧ヶ峰のさらさらの雪と、真っ青な空は次回以降のおあずけとなった。それでも、吹雪の中の散歩は、雨に降られてトボトボ歩くのよりも、ずっと楽しかった。

吹雪の霧ヶ峰。車山頂上を臨むも雪雲の中で見ること能はず。
柱の横に張り付いた雪で、吹雪の強さがわかる。

2012年12月29日土曜日

雪の中央道を走る

笹子トンネルの天井崩落事故以来、中央道の下り区間も大月JCTから勝沼までが通行止めとなっている(上りは一宮御坂から大月JCTまで)。明日からは、笹子トンネルの下り線を対面通行にする形で部分開通させるらしいが、今日あえて国道20号を走るつもりで中央道を下ってみた。

最近、首都高4号新宿線は空いているような気がする。そして3号渋谷線は逆に混雑が増したような気がしている。名古屋から西へ向かう交通が、中央道を避け、東名に移ったからだろうと勝手に推測しているが、今日も4号線は実に空いていた。しかし、その快適なドライブも大月JCTまでだった。

八王子から山岳地帯に入ると、最初の「緊張」ポイントである小仏トンネルが現れた。事故以来、久しぶりの中央道のトンネル。やはり怖い。が、よくみるとこのトンネルは丸天井で、排気用の大型扇風機が天井に取り付けられていた。つまり、吊り天井式ではなかった。少し安心したものの、ちらちら天井を眺めるのは危ないので、速めの速度でとにかく通り抜ける事に専念する。この後、中央道は左ルート、右ルートに分岐するのだが、今日は右ルートを選んだ。ここは短いトンネルが集中して現れる。しかし、どれも丸天井だったので胸をなでおろした。なんだ、快適じゃないか、と安心したとたん、車線規制が突然始まり、いきなり一車線まで減少する。慌ててブレーキを踏んで、ハンドルを切る。富士五湖方面への分岐道へ誘導される。笹子峠を国道20号(甲州街道)で抜けるなら、ここ(大月)で下りる必要がある。ICの出口直前のトンネルで突然、前を走っていたバスがハザードランプを出して急停車した。渋滞がいよいよ始まったのだった。

高速道に発生した渋滞列の中で待つこと15分。ほとんど動かない。こんな調子で峠を越えるのは堪え難い。しかも地図をよく見ると甲州街道も結局トンネルを抜けることになるようだ。大渋滞のまま古いトンネルに突入し、そこで長い時間を過ごすのだけは、ご免被りたい。予定を変更し、河口湖まで行くことにする。

予定が変更された結果、河口湖ICで一般道に下り、国道137号で一宮御坂へ抜けるか、それとも更に西へ抜けて国道358号で甲府南を目指すか、あるいは更に更に西へ走って国道52号から中部横断道経由で双葉JCTに出るか、3つのルートのどれかを選ぶことになった。

このとき、NEXCO中日本が、迂回路として137号を推奨しているとは知る由もなかった。今さらながら調べてみると、河口湖ICを下りてから24時間以内に、一宮御坂ICで中央道に復帰すれば高速料金を安くしてくれるとか。どうりで、137号へ抜ける車が多かったわけだ。トラックなどは全部そっちへ行ってしまった。

私はというと、河口湖で下りたとき、間違えて139号を逆走し、西へ向かってしまった。たしかに、甲府は河口湖から見て西の方にあるのだが、137号に乗るにはいったん139号を東方面に「逆向き」に走らないと「正しい向き」とならなかったのだった。途中でこのミスに気づき、右折して河口湖大橋に抜けては見たが、この道がひどく渋滞していたので、「これは河口湖迂回ルートを選んだ車の大勢は137号を通るのだろう」と予想。137号で峠を越えるのはあきらめ、その手前で西湖、そして精進湖へ抜けることにした。

途中、河口湖の畔のカフェで休憩す。雪が降り始めてきた。河口湖大橋の袂にあったカフェは混んでいたが、ここは貸し切り状態。雪が降っていなければ、目の前の湖の向こうに富士が大きく見えただろう。吹雪になり始め、視界が悪くなってきた。富士の半分から上は白い靄に隠され、裾野だけが見えた。暖かいコーヒーを飲み干し、スコーンをほおばって、再出発する。

西湖は雪景色となった。岸辺の岩が妙にごつごつしているな、と思ったのだが、多分あれは溶岩だったんだろうと思う。精進湖の手前は、青木ヶ原樹海だということを忘れていた。久しぶりに訪れた深い樹海も雪に埋もれて白黒の世界と化していた。精進湖のところで、このまま西進して身延からの52号線へ行くか、それとも右折して358号線で峠を越すか、少し迷ったが、交通量が少なそうに見えた後者のルートを選ぶ事にした。吹雪は続いていたが、路面にはまだ積もっていなかった。これはこの後に現れる厳しい山道を抜けるには幸運だったと思う。

この山道に沿って、隠れ里のように深い山のなかにひっそり横たわっていたのが、上九一色村だった。初めて来たが、これほどの奥山だとは思わなかった。警察もここまでくるのは大変だったろう...サティアンがあった場所は、きっとさらに山奥だったはずだ。

上九一色を越え、古いトンネルをくぐると、目の前に甲府盆地が開けて来た。雪は小やみになっていた。甲府南から中央道に復帰する。これで一気に信州まで...と思ったが、双葉JCTを越えた辺りから再び雪が舞い始め、最後は吹雪になってしまった。乗用車とトレーラーの事故があったのは、八ヶ岳SAの手前。辺りは薄暗くなり、雪の白さが際立ち始めた。その景色の中に、非常灯火の赤い火花が幻のように列を成して光る。この辺りから積雪がひどくなり、ノーマルタイヤで走る関東からの乗用車は低速運転し始め、後方へと去っていった。ひどい積雪と吹雪の中、中央道をただ一人走ることになった(時折、諏訪ナンバーの車に追い抜かれたけれど)。日が沈むと気温がぐっと下がり、スタッドレスとはいえタイヤが微妙に滑り始めた。仕方なく速度を落とし、諏訪南まで雪の高速をひた走る。

原村は大雪だった。車を止めて、歩いてみる。ツルツル滑って、転びそうになった。犬は喜んで吹雪の中を走り回っている。車に戻り、試しに急ブレーキを踏んでみた。結構滑る。気温が下がり切ってないので、圧雪すると融けて滑りやすくなるようだ。これから暗闇のなかを、吹雪の霧ヶ峰に向かうのは狂気の沙汰のような気もしたが、久方ぶりの年の瀬の大雪を楽しまない手はない。大門峠を目指すことにする。

白樺湖までの道のりは、予想していたとはいえ、息を飲む道のりとなった。所々でハンドルをとられ、横滑りした。ヘアピン手前ではブレーキを掛けすぎないよう、そして絶対に止まらないように、空回りする車輪を回し続けた。下りの対向車線はスピードが出せず、大渋滞していた。大型のトラックとすれ違う度に、冷や汗をかいた。

雪はまだ降り続いている。ストープの揺れる赤い火が眠気を誘う。暖かい部屋の窓から、積もる雪を眺めるのは至福の時間だ。昨年の美ヶ原の経験が生きたと思う。今年も、これから足を伸ばして、雪の美ヶ原を再訪してみてもよいかも。真っ白の雪に覆われて、誰もいなくなった霧ヶ峰や美ヶ原ほど美しく楽しい場所はない。

年の瀬の夜の雪。

2012年12月17日月曜日

静岡市のセシウム汚染

静岡市のお茶や柑橘類がセシウムで汚染されていることは既にいろいろな場所で報告されている(その程度は、平均的にはかなり弱いが、時折高い汚染が見られるときもある)。たとえば、静岡放射能汚染測定室報告書(第8号、2012.3.3発行)によると、2011年5月5日に静岡市葵区で収穫された緑茶は放射性セシウムが合計で428ベクレル/キロの値を示している。(この測定所は京大の河野さんと共同研究を行っている。通常はNaIシンチレータを使用して測定を行っているが、時折京大のゲルマニウム測定器を用いて較正しているらしいので、発表している結果の信頼度はかなり高いと思われる。)厚生労働省の発表しているデータをみても、静岡市のお茶は、平均してだいたい2 Bq/kg未満の汚染があることが見て取れる。その他、静岡市のミカンやユズなどからも、弱いセシウム汚染が検出されている。

この事実からして、放射性セシウム、すなわち「死の灰」のプルームは、箱根を突破して、東海地方まで広がってしまったことは確実だ。そのセシウム汚染の程度は、土壌汚染を調べればわかる。今までにいろいろな地点で測定しているので、比較することでプルームがどのように、そしてどこまで広がったのか、検証することができる。実は、静岡放射能汚染測定室では土壌の測定を実施したらしいが、データが公開されていないため、結果を確かめることができない。
関東平野、伊豆半島、富士山、そして静岡市の位置関係
去る夏の終わり、仕事で静岡市を訪ねる機会があった。あのときは、まさか静岡市までセシウムが来ているとは思わなかったので、あまりまじめに土壌調査をしようと思わなかった。せっかくの機会だったが、駿府城と八幡山頂、そして登呂遺跡の3地点のみの調査しかやらなかった。また、汚染はないだろうと思い込んでいたので、土壌の放射能測定の優先順位を下げていた。そのため、ついこの間まで測定せずに放っておいた。それだけに、今回の測定でセシウムのピークがクッキリ浮かび上がったことに、非常に驚いてしまった。

静岡市は太平洋に面しているけれど、駅から浜辺までは結構離れている。歩いていくと1時間以上かかってしまうが、バスが結構便利なのでうまく利用するとよい。東には日本平や東照宮のある久能山があり、ちょっとした山地を形成している。南向きの斜面は冬でも温暖で、石垣イチゴが有名だ。(いちど食べ放題に行ってみた事があるが、ハエが多くて衛生上の問題があるような気もしたのだが、静岡の人たちはあまり気にしてないようだ。)ロープウェイがあるので、久能山の長い石段を登らずとも、手軽に山頂から臨む太平洋の景色を楽しむこともできる。

市内は平坦だが、周辺は山に囲まれていて、夏に行くと遠景の緑がきれいだ。ただ、街はコンクリートに覆われていて自然は少なく、開発が進んで高いビルも多い。飲屋街が縦横に伸びていて夜は騒がしいが、他の地域よりも景気がいい印なのかもしれない。この平坦地は新幹線で南北に分断されていて、さらに東海道や東名高速などによって更に南北に分けられる。

静岡市とその周辺の地形
そんなのっぺりした地形の中、静岡駅の近くで新幹線の南方向の窓から見ると、大きめの丘(小山?)が平野から立ち上がっているのが特に目立つ。八幡山と呼ばれる山だ。地元の住民何人かに「あの山はなにか不思議な感じがしますが、市民にとってのシンボルだとか、憩いの場所だとか、かつての古墳の跡だとか、なにか特別な意味があるのでしょうか?」と尋ねてみた。しかし、どの人も「さあね」と答えるばかり。個人的には、謎が深まり興味が湧いてきた。高台と平野の汚染の違いも比較出来ると考え、訪ねてみる事にした。
駿府城、八幡山、そして登呂遺跡の位置関係
まずは、静岡市のある平野の代表地点として、駿府城(静岡市葵区)の調査から始めることにした。この地点の汚染の度合いは、静岡市全体を代表しているはずだ。

駿府城は、徳川家康が隠居してから居城として使った城で、江戸で将軍を勤めていた息子秀忠の黒幕となって、引退してからも自分の作った幕府に対し、静岡の地から影響力を行使したらしい。家康が睨みを効かせていたおかげで、静岡は経済的にもずいぶん繁栄したようだ。久能山のイチゴ農家がちょっと高飛車なのも、「殿様商売」の影響が残っているのかもしれぬ。「ハエが嫌なら帰ってもらって結構」ってなわけだ。

夏の陽光は強かったものの、東京よりも涼しく過ごしやすい。海風のせいなんだろうか?とても気持ちのよい場所だった。街中はコンクリートに覆われてあまりよい風景とはいえないが、城門から遠くに見えた山の緑が気持ちよかった。やはり、城のある街はいい雰囲気がある。
駿府城の入り口。明治政府に破壊されたものを、
最近になってから復元したもの。
門をくぐると、中は広場になっている。日本庭園もあるが、これは後から付け足したもので、歴史的にはあまり意味はないようだ。真ん中に大きな池があって、その周りを散策できる。とてもよい庭園だと思う。

さて、調査は城内の桜林らしきところで行う。空間線量を測り、カラカラに乾燥した土を採取した。空間線量の測定結果は、地表で0.08-0.10μSv/h程度。ちょっと高いような気がした。東京で汚染の「低い」場所と似たような値だったからだ。
城の中の桜(?)林にて、調査を行う。
空間線量は地表で、0.08μSv/hだった。
ちと高めだな、と思った。
最初で述べたように、この土壌は最近まで放っておいたのだが、この間ベクミルで測定してきた。その結果は93.93 Bq/kgとなった。値自体は低いものの、セシウムのピークがはっきりわかるスペクトルとなった。セシウムの「死の灰」は、思ったよりも濃い濃度で、静岡市まで到達していたのだ。
駿府城の土壌の放射能
矢印がセシウムのピーク(左よりCs-134, Cs-137, Cs-134)。
1550keV近くのピークはK-40(天然の放射性物質)のもの。

静岡の名産といえば、茶と蜜柑だ。キノコやタケノコと並んで、この農産物はセシウムをよく濃縮する。つまり、大地自体の汚染が弱くても、自らセシウムをかき集めて汚染を強くしてしまう傾向が強い。すなわち、「移行係数」が高いのだ。これは、静岡にとって本当に不幸だったと思う。汚染が弱くて済んだのに、その主力農産物が汚染を悪化させてしまうからだ。もし、静岡のお茶や蜜柑の売れ行きが落ちているなら、ためらう事無く東京電力や政府に賠償請求すべきだろう。蜜柑やお茶は、私が思うに、「静岡の名産」というよりも「日本の特産品」と呼ぶべき農産物だと思う。だからこそ、静岡の大地がセシウムに汚染されたことは、大きな驚きであり、悲しい事実だ。

追記:あとで別の方がすでに土壌測定をし、その結果を公開していることを知った。3地点で測定している。一番高かったのは、静岡市大坪町という場所の公園の土で、94.1Bq/kg (LB2045で20分測定)。3つのセシウムピークもクッキリ見える。これは、今回の駿府城の結果とよく似ている。また、その他の2地点は10 Bq/kg前後で、検出限界ギリギリ。スペクトルにピークらしき構造は見えるようなみえないような。こちらは、静岡放射能汚染測定室で測定とのこと。


2012年11月18日日曜日

冠雪した八ヶ岳の夕映

このあいだ来たときは、紅葉こそ垣間見えたものの、その上には夏雲がかかっていて、まだ暑くすら感じられた。それがいきなり冠雪したのだから、「あっ!」ってなもんである。

その上、夕映えがかかれば、晩秋の趣この上無し、といったところ。ふと、アルプスの少女ハイジのあるシーンを思い出した。たしか、夕焼けの色がどんどん移ろいでいくのを不思議がった、という記憶がある。たしかに、朱色から紫色へとみるみる色が変わっていった。

とにかく、冬はもうすぐそこまで来てる。
阿弥陀岳周辺の八ヶ岳山麓