2009年11月30日月曜日

英国からの客人

英国で世話になった教授が、実験のため日本にやって来た。一週間の間にできるかぎりデータを集める計画だったのだが、肝心の実験機械が壊れてしまって、なかなかうまくいかない、とこぼしていた。とはいえ、彼は無為に時間を浪費するタイプではないことはよく知っている。実際、色々な人たちと議論をして、無駄に時間は過ごしていないようだった。私の大学にも一日やってきて、有益な議論をすることができた。特に、彼がドイツの研究所でおこなった実験では、新しい発見があったようで、たいそう興奮した様子でその実験内容の説明をしてくれた。

議論の後、野田岩に行った。夏にイタリア人たちと行ったときは、うなぎづくしのコース料理を頼んだのが、今回はいつも出前で食べている、うな重を頼んだ。イギリス人にとって、ウナギは「ゲテもの」食いだから、なるたけ抵抗無く食べられそうなものを選んだ。最初はおっかなびっくり食べていたが、5口も食べると「これはいける」とバクバク食べだして、けっきょく平らげてしまった。喜んでもらってなによりである。

休日は、自宅に招いていろいろと話をした。日本に戻ってきてからの、こちらの生活の様子を主に伝えた。この客人、以前来日したときには、水筒代わりに丸々スイカを一つ担いで登ってしまった健脚で、英国にいた時も、「そういえば、この休みは大学時代の友人とキリマンジャロに登ってきたよ」とさらっと言ってのけ、私はのけ反って驚いたものである.今回も、渋滞の骨董通りでタクシーを降りたところから出発し、表参道を南下して明治神宮を参拝し、その後、渋谷経由で246沿いに西麻布まで、ずっと徒歩で巡ってしまった。この長い散歩の後の夕方、西麻布の、とある居酒屋にいった。ここは「いらっしゃいませ」を店員が一斉に叫ぶような、ちょっと騒さいタイプの店なのだが、店内の日本風の内装が案外居心地よく、今回で2回目となる。料理がいまひとつなのが問題なのだが、まあそれは居酒屋ということで目をつぶることにした。とにかく、ここは外国人をつれてくるにはもってこいの場所だ。そう思う人は少なくないようで、客の40%近くは外国人であった。

店を出ると、しとしと雨が降っていた。天気予報から少しずれたようだ。首都高を飛ばして、客人の宿まで送る。「今度はバークレーで会おう」といって別れる。来年の夏は、久しぶりにカリフォルニアで国際会議があることを教えてもらった。なんとか都合をつけて、参加したいものである。

2009年11月1日日曜日

訳本は難しい

訳本を読んでいて「難しい」と感じた。

多くの人は、シェイクスピアの戯曲のおかげで、リチャード三世のことを知っている。だが、歴史としてみた場合、この話は胡散臭い。なんといっても、シェイクスピアのパトロンは薔薇戦争の勝者だからだ。とはいえ、個々の話に問題があっても、学者はさまざまな記録をふるいにかけて共通点や補完する見方を手に入れ、偏見のない知識に到達できる。

日本語として、なんか意味がすぐに頭に入ってこない....それに、この書き方、ハーバード大学の先生が書いた文章とは思えない。「胡散臭い」なんて、どこぞの週刊誌の政治記事かなんかのようだ。そこで、原書を購入して読んでみた。

Most of us learn about Richard III through Shakespeare's eponymous drama, but as history, this account is suspect - after all, Shakespeare's patrons won the War of the Roses. Biased, selective, incomplete, and even incomprehensible documents are the daily bread of historians. Despite the shortcomings of individual accounts, however, scholars can arrive at a balanced understanding of the past by sifting through a number of different records for points of agreement and complementary perspectives.


まず驚いたのは、"Biased, selective...."に対応するはずの一文が、訳本に見つからないことである。完全に訳し忘れている。この文はいわばこの段の主文であり、これがないと、次の段落への展開に辻褄があわなくなってしまう。

最初の文は意味だけとれば悪くないが、learnを使っているので、単に「知っている」とやるより、「勉強して学んだ」感じを出した方がよいと思う。「シェイクスピアの戯曲」ってのはいいとは思うが、「eponymous」を訳してない。エリザベス朝もの、とかエドワード朝もの、とかいった感じの、いわゆる「時代劇」である。イギリスでは"period drama"ともいう。また、文末にリチャード三世が来ているが、後ろの文章で議論されるのは「戯曲」であって、王様のことではない。間違った印象を与えるのを避けるためには、王様と戯曲の順番を変えたほうがよいだろう。

しかし、この翻訳の一番の問題部分は、飛ばされた文の次の文だと思われる。まず、accountを『話」としているが、やはり「記述」にするべきだと思う。「話し」っていうのは、なんか安っぽい週刊誌の記事を思い浮かばせるのでよくないと思う.また、一文飛ばしてしまったので、scholarsの意味が曖昧な「学者」になってしまっている.ここでは「歴史学者」とするべきだろう。

最後の「偏見のない知識に到達できる」というのはそれこそ「訳者のハナシ」であって、原著者の意図していることではない。到達するのは知識」ではなくて、「理解」である。学者たちの骨身を削った前向きな努力があって、やっと得られるのが「理解」である。だから、「理解」は、ある意味、その学者の「作品」であり、創造といってもよいかもしれない。(もちろん、自分勝手な創造ではだめで、史実や論理に沿ったものでなければならないのはいうまでもないが。)一方、「知識」というのは、どちらかというと受け身な感じがして、いわば、論理的な思考を身につけたものなら誰でも到達できるものだから、ある意味「あたりまえ」の作業だ。説明書通りにプラモデルを組み立てるのか、それとも自分のイメージを形にした彫刻作品をつくるか、の違いである。


リチャード三世について最初に学校で習うのは、大抵シェイスピアの「時代もの」の戯曲だろう。しかし、彼の作品が史実を忠実に再現しているかといえば、それは疑わしい。つまるところ、シェイクスピアの創作活動を支援していたのは、薔薇戦争に勝った王や貴族たちだったからだ。このように、恣意的かつ偏見に満ち、不完全である上に、ときには文字がかすれて読めないような文献こそが、真の歴史学者たちが日常的に扱う資料なのである。ひとつひとつの資料には様々な問題点が存在する。しかし、それにもかかわらず、歴史学者たちは、たくさんの記録や資料を調べ、それらをふるいにかけながら、多くの記録に共通して記された出来事や、ある資料で欠損している部分を補完するような記述を探し出したりして、過去に起きた出来事に対してバランスのとれた理解へと到達することができるのである。