2012年3月28日水曜日

今年二つ目の論文


この間の論文の続編がほぼ完成した。

前の論文が発表されてから、よくよく調べてみたら前回の結果は一般化できることが分かったのだ。今回の論文では、数学の基礎理論を多用している。数学の基礎というのは本当に大事だと痛感した。それから、難しい教科書の細部という奴も、後で凄く大事になる。つっかかってしまって先に行けないのはよくないが、後で思い出して戻れる程度には理解しておくべきだった。そして必要なときに、必要なだけ深く理解できるような柔軟さも訓練して身につけておく必要があろう。人間というのは動機が必要なのかもしれない。せっかくの才能も、動機がないと発動させられない。

そういえば、小学校の頃、桜の散る時分になると必ず外国人の宣教師が校門脇に現れた。この宣教師、桜の木の下で自転車の荷台に紙芝居の道具を載せて、聖書の話を紙芝居にして子供達に説教した。私はクリスチャンではないが、彼らの影響を受けて、知らないうちに聖書風の考え方を身につけてしまったような気がする。

彼らの見せた絵の中に、天国への門の絵があった。開け放たれた大きな門は、門というよりは広い敷居に過ぎなかった。誰だってそこを跨いで簡単に天国に向かう事ができるように見える。しかし、宣教師は、「天国への門は誰にでも開かれているのだが、それを見る事をできるのは限られた人だけ」と言った。この広くて開け放たれた門を、多くの人々は見逃してしまうのです、と付け加えた。確かに絵をみると、門の目の前で横を向いたり、下を見たりと、まさに近視眼的な振る舞いをしている人々が描かれていた。天国の門の存在は、見える人には自明だが、そうでない人には永久に見えないのだという。子供の頃に「洗脳」されてしまった私にとって、この喩話は、今、至極納得がいく。

2 件のコメント:

michiko さんのコメント...

現世とは違う世界、いわゆる目に見えない世界というのはわたしの場合は親の教育によって全く信じてもいませんでした。

とはいえ、親は両親共に仏教なので小さい頃に何かの本で見た絵柄が脳内に潜在的に記憶されていたのかどうかは定かではありませが・・・、

ある日唐突に小学生だった頃、曼荼羅に描かれているような世界の夢を見ました。

カラフルな色の世界の中を、ふにゃふにゃ奇妙に動く羽衣を着た人間、うっすらとかかる雲、奥の方にまばゆいばかりの複数の手を持つ人間・・・

はっきり言ってそんな夢をみて起きた後は、ものすごく気持ちが悪かったです。

その後、中学生くらいになり、脳内にこびりついて離れない夢の存在が気になり、図書館で調べ始めました。その夢の正体は、曼荼羅であった事をその時にはじめて知りました。

その時からではありますが、ああ、こういう変な色合いの奇妙な絵を誰よりもはじめに描いた人は、きっとこの夢を見たんだな・・・と。

昔、奇妙な夢によって洗脳されてしまった私にも、その喩話の意味が納得いきます。

論文の完成、おつかれさまです^^

kuzzila さんのコメント...

michikoさん、
コメントありがとうございます。

必要無いと決めつけ、境界を引いてしまうと、脳みその活動が止まってしまうことに気付いた、といってもいいと思います。