2011年12月3日土曜日

広渡氏のメモ

「ドイツではなぜ脱原発に至ったのか?」という題で討論会があった。明治大学と専修大学の双方で開催された。ここでもらった広渡氏のメモは素晴らしいと思った。的確な分析がなされ、世界で唯一の戦争による原爆被爆国でありながら、なぜ原発を推進してきたかという矛盾を追究している。

広渡清吾氏は、東京大学法学部の名誉教授であり、日本学術会議の会長でもある。(現在は専修大学法学部でも教鞭をとっている。)日本の知識人の最高峰に立つ一人だろう。

以前書いたように、日本の原子力政策が始まるのが1954年のことで、当時若手議員だった中曽根元総理大臣と、読売新聞社社長の正力氏が中心となって、国会で原子力予算が承認させた。

広渡氏のメモによると、この予算承認直後に、日本各地(といっても、ほとんど全国規模、つまり、札幌、仙台、東京、名古屋、京都、大阪、広島、そして福岡)で、「原子力利用平和博覧会」が開催された。主催は読売新聞だった。つまり、正力松太郎氏の「原子力キャンペーン」だったわけだ。この博覧会は宣伝がうまくいったせいか、大人気となり、東京だけでも37万人弱が入場したという。驚くべきことに、広島においてもこの博覧会は盛況で、とりわけ原子力科学館が人気を集めたという。

この博覧会の前後で、日本の世論に大きな変化が起きた。1956年に70%の国民が「原子力は有害だ」と感じていたのに、1958年には30%まで激減したという。正力氏のキャンペーンの勝利と言えよう。(ちなみに、彼は関東大震災のときもある事件に関し、その情報操作に関わっていたという。)

ところが、広渡メモにはさらにすごいことが書いてあった。実は、真の主催者は読売新聞社ではなかったというのである。読売新聞、すなわち正力氏は、単に「現地担当者」として開催に協力しただけだというのである。

(つづく)

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