それからもう何年も経った。しかし、試験の記憶というのはなかなか消えてなくならないものだ。北京大学出身の友人は、今でも夢でうなされるという。さすがに、そこまではいかないものの、確かに嫌な思い出が多い。
試験時間が足りなくて焦ったこともあるが、逆に余って余って仕方ないときもあった。小学校では問題なかった。人より早く解いて、そのまま提出しても、だいたいいい点がとれた。中学校でも最初の頃は答案を早々と提出してしまったが、ケアレスミスに悔しい思いをした。高校に上がってもこの癖はなかなか抜けず、特に物理では、最初にミスってしまうと、坂道を滑り落ちる質点の如く、どん底に落ちてしまうことがあった。そこで、大学入試を受けるあたりから、余った時間は無駄にせず、見直ししようということになった。
見直しでは、ケアレスミスを見つけることができたが、同時に正しいと思った答えに突然自信がなくなり、迷って迷って迷った挙げ句、間違えた選択肢に変えてしまったこともあった。また、「合っているはずだよ。もう疲れたから早く引き上げたい」、という負けの心に打ち勝てず、ミスを見逃すことも多かった。基本的に楽天的な性格なので、細かい点に注意を向けるのが苦手だった。しかし、それでは科学者になるのは難しい、と次第に悟る。予備校で出会った全国から集まった友人たちには衝撃を受けた。トップの大学を狙う人間たちの中にあって、自分が埋没する感覚を初めて味わった。実際、その中の3、4人ほどが後に科学者となって、東大、慶応、そして理化学研究所などで教授や主任研究員となり、今も活躍している。ここでようやく、答案の見直しを真剣にやるようになった。そして、結構精神力が強くないと、見直しというのはできないと骨身に染みてわかった。そして、最後の踏ん張りというのはとても大切だということを学んだし、身につけたと思う。
試験から遠ざかって、しばらく、この「見直し」の感覚から遠ざかっていた。実は、先日、久方ぶりの論文投稿をしたのだが、共同研究者の粘りを見て、この感覚を思い出した。粘ると意外にアイデアが出てくる。そして、それが論文をいいものにする。レフェリーとして見た時、確かにnon-trivialな一歩前進が記述されている論文を見ると、OK!と一発で通したくなる。一方で、ごちゃごちゃと色々なことが「全部書けばいいんだろ。俺は論文数だけ増えりゃ、それでいいんだよ。とにかく早く通してよ。」と嫌々羅列された論文には辟易する。(実は、最近そういう論文の査読を担当したのだ....英語のスペルミスもグラマーの間違いもあちこちにあって、まさに雑だった。)自分も実はこのような論文の書き手になりそうになっていたことに、気づかされたのだった。
「答案の見直し」は、誠心誠意やらないといけない。とても疲れるが。勝っていると思っても、最後の瞬間まで努力しないと勝負を決めることはできない。これはスポーツと同じ。
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