2011年5月3日火曜日

フォッサマグナの東縁(=柏崎)

先日、川中島の博物館でフォッサマグナの勉強をした。博物館にあった参考書を買ったり、町の図書館で本を借りたりして読んでみた。驚いた事に、昔、中学や高校で習った事は誤りであることがわかった。ここにメモしておこう。

まず、中学で「フォッサマグナとは、糸魚川静岡構造線のこと」と習った。高校の地学では、プレートテクトニクスや地震のs波p波は学んでも、地域特有の事象は学ばないから、中学で教わった「フォッサマグナ=糸静線」の認識は改められぬまま今日まで来てしまった。しかし、今回の「勉強」で、この認識が誤りである事がはっきりした。(ちなみにWikipediaにもそういう記述がされている。)

まず、フォッサマグナの意味だが、これはラテン語で「大きな凹み」という意味で、ナウマンによる命名だという。糸静線一本だけでは断層とはなれど、凹みにはならない。凹みにするには、もう一つの「縁」が必要だ。フォッサマグナ(日本語で「大凹」と書いた方が誤解が少なかろう)の西の縁が糸静線。東の縁に関しては諸説あるようだが、大勢は「柏崎銚子線」と考えているらしい。

柏崎?東電の原発があるところじゃないか!しかも、中越地震とか大地震が頻発している場所である。このフォッサマグナの東縁は「生きている」ということだ。義務教育の社会科では「フォッサマグナ」を「大凹」だと強調すべきで、その東の縁が柏崎にあるということは、しっかり教えなければならないだろう。

さて、この「大凹」だが、数千万年前には、その凹みに水が流入しており、海だったそうだ。だから今でも長野県には貝とかクジラとかの化石がたくさんでる。また、千曲川の上流には、小海や海尻、海瀬なんて地名だってあるくらいだ。フォッサマグナの縁は断層になっているため、その巨大な崖が海から立ち上がり、西日本と東日本を2つの島に分けていたという。西縁の崖は今の飛騨山脈だ。

しかし、東の縁に関してははっきりとした断層が現在は見えない。たぶん、中越地震や、今回の大震災翌日に起きた長野県北部地震(栄村)などの大きな地震が起きている地域が、おそらく東縁に対応していると思われる。大震災の後、余震が関東方面を目指して南下しており、茨城、千葉でも結構大きな余震がこの一ヶ月間多発した。これはフォッサマグナの東縁の断層が(大震災に)反応しているからではないだろうか?

フォッサマグナが海だった当時の「東日本島」には「関東」は存在しなかった。この平らで標高の低い部分はまだ(フォサマグナの)海だったからだ。ただ、当時から残る「関東」もある。それが「関東山地」、つまり秩父や多摩の山々だ(甲武信岳から佐久地域に繋がる信州の山々も含まれる)。この塊は「島」だったという。つまり、東日本島と西日本島を隔てる海峡に浮かぶ、大きな島だったらしい。

兵庫や福岡で恐竜の化石が出て、福島いわきにアンモナイトや魚竜の化石が産出し、そして秩父にも恐竜の化石がでるのは、これらの地域が古い岩盤でできているからだ。一方、関東平野でとれる化石といえば、千葉でも神奈川でも新生代の貝類ばっかりで、現代の浜辺で拾える貝殻とほとんど同じ物が多いのは、これらの地域は「最近できた」新しい大地だからだ。

フォッサマグナの信州部分は八ヶ岳(や浅間山など)の火山活動で埋まっていった。また、大地の隆起もあって、次第に水が引いていき淡水化した。そこには日本最大の湖が形成され、その周りにゾウやマンモス、大型の鹿などが住み着いた。またその獲物を狙った旧人類もやってきた。信州に縄文時代の遺跡が多いのはこれが理由だろう。大和朝廷のあったところから遠く離れているにも関わらず、善光寺など古くから文化が発展したのも、昔からこの地には人が多く住んでいて、都市との交流が盛んだったからかもしれない。

この大きな湖の平らな湖底は、信州の盆地となった。ただし、八ヶ岳によって2つに分断されている。その東には千曲川が流れ、佐久上田長野の盆地がある。一方、西側には天竜川(諏訪湖)および梓川沿いに、伊那(諏訪)松本の盆地がある。信州の山奥に「平」があるのは、フォッサマグナの海/湖があった証拠といえよう。

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