大江健三郎氏の会見があったそうだ。
「経済合理性や生産性ばかりにとらわれない理念を掲げる勇気と見識を求める」と。
梅雨明けの頃より、あちこちのチャネルで「さよなら原発の署名」をお願いしたが、反応は鈍かった。署名するだけの勇気がないタイプの人と、原発の怖さが判らないタイプの人と二つに分かれていて、結局「勇気と見識」の欠如がその主な理由だった。
新しい総理大臣の「原発再稼働宣言」が出た以上、大江氏は黙っていられなかったのだと思う。危機感があったんだと思う。私たちは、この危機感を共有し大勢で行動することで、大江氏(と私たち自身)の命を守らなければいけないと思う。(大江氏に中坊氏の二の舞を踏ませてはならないし、我々も、太平洋戦争で無意味に死んでいった人々と同じ運命をたどらないよう闘わなくてはならない。)
一方、武田氏の発言についての報道もあった。「東北の野菜を子供は食べないで」というテレビでのコメントに、一関市長が苦情を言ったというもの。この先生、ちょっと問題が多いことは確かだが、本質は正しいと思う。
ただ、間違っていたなと感じるのは、「東北」とひとからげにしてしまった大ざっぱさ。秋田や青森が、千葉、埼玉、茨城、群馬と比べて、とりわけ汚染がひどいとは思えない。やはり、「少なくとも、福島とその周辺の県の農産物を子供が摂取するのは避けた方がよい」程度の表現にしておくべきだったと思う。
子供に汚染食物を食べてほしくないという切実な気持ちに関しては、武田先生の気持ちを評価したい。テレビではっきり言えない人が多い中、不注意はあったが、勇気ある発言だったと思う。日本国政府やその自治体が、客観的かつ科学的な食物汚染の評価をほとんどやってないのは、世界的にも有名で、強い批判を浴びている。消費者や国民は、東電や政府のミスを押し付けられていることに、気づく必要がある。私たちは、自分の健康を害し、自らの命を削ってまで、彼らの「裕福な暮らし」を支えてあげる必要はまったくないと思う。例えば、原爆で殺された人やいまだに後遺症に苦しむ人たちが飲まされた煮え湯は、まさにどこかに住む「お金持ち」の生活を裕福にするためだけに、命をかけて「摂取」させられた、ということを忘れるべからず。(それでいて、そのお金持ちたちはなんの痛みも犠牲も払っていないのだから、割にあわないことこの上ない。)
1 件のコメント:
同感です。
教育というのは、普通プラス思考の発想で、「教える」こと、そしてその成果として「立派な人間になる」ことの効果を考えますが、支配する側からすると「教えないこと」あるいは「嘘を教えること」の効果を最大限利用しようと考えているでしょう。「教育」の利用法はプラスとマイナスの二つあるということですね。この辺りは、気をつけないといけないのだと思います。
役人になるときの試験や面接では、支配者に従属する能力を徹底的に検査されますから、思考停止した「優秀な」人材が重用されます。これは、日本に限らず、英国でも米国でもまったく同じでした。(軍関係の人々は特に。)
ただ、英米にはこれに抗う人も多数いるので、バランスがある程度取れているのかもしれません。逆に、日本はどちらかというと、やじろべえにならず、片重りのシーソーになりがちな感じがします。
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